三国志ブランド「赤兎馬」がおくる三国志Tシャツ、三国志グッツの専門店「三国志ショップ赤兎馬」


性名:曹操(そうそう) 字:孟徳(もうとく)    生死年:155〜220
出身地:沛国県[言焦]県  役職:郎→大将軍→丞相→魏王
所属:後漢→劉岱→君主(魏)
能力値:
武:88 知:95 統:100 政:96 魅:98

説明文:
沛国ショウ県の出身で、霊帝に仕える宦官曹騰の孫に当たる。当時、宦官は世間から軽蔑されていた。その孫というのだから、社会の圧力もあり、なかなか表舞台に立つことは難しい。加えて、背が低いというのも彼のコンプレックス。だが、それをバネとし、武術・舞踊・音曲・兵法など、様々な分野で類まれな才能を発揮。ついには改革的な政治に、人々は始皇帝の再来と噂し恐れるようになった。許子将が『治世の能臣、乱世の姦雄』と評価したのはあまりにも有名で、才能ある者は身分にかまわず登用し、人を見抜くことにかけては誰にも負けなかった。演義では悪役として描かれているが、劉備は血筋を武器とし、孫権には受け継いだ領地と兵があった。まったく無の状態からスタートを切った曹操は中華の統一とまではいかなかったものの、たった五千の挙兵から、群雄割拠の時代を生き抜き、天下の三分の一を手にした。彼の実際的な政治能力の高さがうかがえる。また、幼い頃からウソが上手く、彼の墓は六十近くの偽物が作られ、一向に謎に包まれているという。
彼は詩人として有能な人物で、「短歌行」「苦寒行」など多数の優れた詩を残しいる。


性名:曹丕(そうひ) 字:子桓(しかん)    生死年:187〜226
出身地:沛国県[言焦]県  役職:五官中郎将・副丞相→丞相・魏王→皇帝
所属:
能力値:武:75 知:64 統:77 政:83 魅:75

説明文:
曹操の嫡男。弟の曹植とともに詩文の才能に優れ、激しい後継者争いを繰り広げる。袁煕の妻、甄氏をめぐる恋愛バトルも有名だが、結局はどちらも曹丕が手にする。魏王となり、三四歳で献帝から禅譲を受け魏を建国。呉が降伏を申し入れたときは『臣従を希望する者を攻めたりすれば天下の信を失う』と周囲の呉殲滅の意見を下げて孫権を呉王に任命する。若く四〇歳にして病没するが、七年間の間に彼が固めた基礎は見事なものだった。彼は弟の詩聖-曹植にも劣らぬ詩の才能があり:「燕歌行」「雑詩二首」などの優れた詩を残している


性名:曹昂(そうこう) 字:子修(ししゅう)    生死年:?〜197
出身地:沛国県[言焦]県  役職:不明
所属:
能力値:武:60 知:53 統:54 政:49 魅:54

説明文:
曹操と劉氏の間に生まれたが、母親が早世したため、丁氏に育てられる。字の名は子脩。父に付き従い、初陣は張繍征伐。だが、一端降伏した張繍の裏切りにより窮地に貶められ、退却の際に、馬を射られた曹操に自分の馬を差し出し討ち死。後継ぎに、と期待されていたようだが、曹操の女好きのおかげで思わぬ不幸を蒙ったことになるのか…。


性名:曹彰(そうしょう) 字:子文(しぶん)    生死年:?〜223
出身地:沛国県[言焦]県  役職:北中郎将・驍騎将軍→任城王
所属:
能力値:武:90 知:41 統:81 政:38 魅:69

説明文:
曹操の次男。父の武勇面を引き継いだようで、腕力が強く、若い頃は武芸に夢中、素手で虎を倒すほどだったという。行驍騎将軍に任じられていたが、父・曹操死後、十万の兵を率いて長安へ来た。しかし賈逵に説得されて曹丕と面会。そのまま引き下がり任地へ戻った。だが、この行動をきっかけに曹丕は強い疑念を抱くようになり、迫害を受けた。二二三年病死している。


性名:曹嵩(そうすう) 字:巨高(きょこう)    生死年:?〜193?
出身地:沛国県[言焦]県  役職:司隷校尉→大司農→大尉
所属:後漢
能力値:武:34 知:72 統:69 政:95 魅:76

説明文:
曹操の父親で、宦官の曹騰の養子になった人物、旧姓は“夏侯”。早くから聡明ぶりを見抜いていたのか、たくさんの子の中でも特に曹操を可愛がり、放蕩ぶりも大目に、『この子は鳳眼だ、きっと大物になるに違いない』と言っていたという。曹操が黄布討伐のために挙兵した際も、二代にわたって築いた財産を全て兵糧に費やしてやった。息子はとんとん拍子に出世し、彼を本拠へ呼び寄せた。だが、かねてから曹操とよしみを持とうとしていた陶兼の兵に護衛され、許昌へ向かう途中、山賊に襲われる。曹嵩は妾の一人と逃げようとしたが、厠の塀を越えようとすると、その妾が太りすぎていて登れない。どうしようかとうろうろしているうちについには斬り殺されてしまった。


性名:曹仁(そうじん) 字:子孝(しこう)    生死年:168〜223
出身地:沛国県[言焦]県  役職:校尉→大将軍→大司馬
所属:
能力値:武:84 知:60 統:79 政:54 魅:69

説明文:
字は子孝。曹操が黄巾征伐に挙兵したときから従軍。関羽に包囲され、水攻めにされたときは樊城にこもり、徐晃の援軍が来るまで守り抜いた。部下の牛金が単騎包囲されたときは、ただ一人救出に向かい、信頼も厚かった。若い頃は勇猛な突撃タイプで法を破る無法者だったが、後年は重厚な司令官へ。曹丕はよく弟を『曹仁将軍のようになれ』とたしなめていたという。


性名:曹植(そうしょく) 字:子建(しけん)    生死年:192〜232
出身地:沛国県[言焦]県  役職:平原候→安郷候→陳思王
所属:
能力値:武:50 知:70 統:65 政:83 魅:90

説明文:
曹操の三男で、兄弟のうち最も詩文的才能に優れる。だが、皇位継承者の候補に挙げられたことで兄、曹丕に睨まれ、次々と重なる左遷など、冷遇され続け、41歳の若さで病死。あるときは、七歩の間に詩を詠めと命じられ、兄弟を題とし、兄のつれなさを見事な詩に歌ったのは有名なエピソード。その哀しさには曹丕も思わず涙したという。


性名:曹洪(そうこう) 字:子廉(しれん)    生死年:?〜232
出身地:沛国県[言焦]県  役職:県令→鷹場校尉→驃騎将軍
所属:
能力値:武:75 知:45 統:76 政:42 魅:70

説明文:
字は子廉。黄巾征伐より従軍。董卓との戦いに敗れたときは、曹操を担いで徐栄の軍から守り抜く。短気で、対馬超では十日辛抱を九日目で罵声に我慢できなくなり大敗。曹操は斬ろうとしたが周囲の取り成しで許される。その直後、危機一髪、馬超の手から救出。『子廉なければ我が命もまたなし』と曹操は複雑な気分だった。後年、文帝に恨まれ投獄され、いつの間に釈放されたのか、献帝から玉璽を奪うところに登場。その後、物語から姿を消した。


性名:曹休(そうきゅう) 字:文列(しれん)    生死年:?〜228
出身地:不明  役職:騎都尉→中領軍→大司馬
所属:
能力値:武:73 知:65 統:74 政:59 魅:74

説明文:
字は文烈。曹操の甥にあたり、大司馬の役職に就いている。呉との対戦では、周鮑の偽りの降伏を信じ、周囲の反対を押し切り追撃、伏兵に遭って大敗した。部下の意見をいれずに猛進するタイプで、これといった功績はないが、曹叡の信頼が厚かった。曹叡が即位すると以前よりも厚遇されたが、かえってそれを苦にし、病死してしまった。


性名:曹叡(そうえい) 字:巨高(きょこう)    生死年:?〜193?
出身地:沛国県[言焦]県    役職:司隷校尉→大司農→・大鴻臚→大尉
所属:
能力値:武:65 知:80 統:62 政:72 魅:73

説明文:
文帝曹丕の跡を継いだ魏の二代目皇帝(明帝)。実母の夫人は郭貴妃に謀られて曹丕に殺された。その為狩りの時、曹丕により親鹿を失った子鹿を見て、射ることなど出来ないと訴えた。曹丕に親を殺された自分を重ねたのだろうか。帝位に就くと司馬懿を重用。一度は蜀の馬謖の策で司馬懿から兵権を取り上げるが、諸葛亮に対抗する為に復帰させ、以後
全権を任せた。しかし諸葛亮の死を境に曹叡の暮らしは乱れ始める。宮殿造営など大規模な土木工事を行い、天下の美女を集め郭夫人を寵愛。そして皮肉を口にした毛皇后を、父の行為を繰り返すかの様に殺す。その後司馬懿に後事を託し、わずか39歳の若さでこの世を去った。諸葛亮の北伐に臨む曹叡の姿勢は毅然としており、判断も理にかなっていた。だが晩年には愚かな君主の典型となってしまう。何が彼をそうさせたのだろう。


性名:曹沖(そうちゅう) 字:倉舒(そうじょ)    生死年:196〜208
出身地:沛国県[言焦]県  役職:不明
所属:
能力値:武:88 知:89 統:75 政:91 魅:80
(13歳で亡くなっている為成人時の予想)

説明文:
曹操と環夫人との間に生まれる。詩文や政治の能力に長け、曹操の一番のお気に入りだったと言われているが、ただ体が弱かったのも同時に残念がられていた。当然曹丕は、ライバルである彼の存在を疎んでいた。あるとき、曹操の頭痛を治すために華陀が呼び寄せられたが、華陀は曹沖をとても気に入り、病を不憫に思い、曹丕にある“札”を託した。その札を肌身離さず持たせれば曹沖の病は改善するという。兄の命を救うべきか、自らの王位を守るべきか、曹洪に相談したが、曹丕派だった彼は“札"を焼き捨て、曹沖は病のうちに死んでしまった。享年13歳


性名:曹熊(そうゆう)  生死年:?〜?
出身地:沛国県[言焦]県  役職:不明
所属:
能力値:武:63 知:59 統:52 政:66 魅:47

説明文:
曹操の…名目上の4男。後継者争いでは特に関わらなかった人物で影はひたすら薄い。
演義では…曹操の葬式を体調不良で休むも、罪を曹丕に問われるのを恐れて自害。
正史では…「曹熊は若くして亡くなった」の、1行のみ…名前だけである。と、まあ歴史上そんなに重要な人物ではなかったようだ。
その証拠に、何かをしでかしたのなら、正史に書いてあろう。でも、実際は能力があったかもしれないが、若くして亡くなった事を考えると…不運としかいえないだろう。


性名:曹芳(そうほう) 字:蘭卿(らんけい)  生死年:232〜274
出身地:不明  役職:第3代魏皇帝
所属:
能力値:武:53 知:47 統:45 政:66 魅:55

説明文:
魏の第3代皇帝で曹操から数えると4代目(曹操は皇帝に即位していない為)となる、しかし曹叡には世継が無かった為実子ではなく養子であると思われる
「魏氏春秋」では曹楷の子であるとされているが事実については不明。曹叡の遺言により3代皇帝に指名され弱冠8歳で即位するが実権は曹爽、司馬氏に握られていた。李豊・夏侯玄・張絹などと謀って司馬氏を退けようとしたが事前に発覚し退位に追いやられる


性名:曹真(そうしん) 字:子丹(したん)  生死年:?〜231
出身地:不明  役職:偏将軍→鎮西将軍→大司馬
所属:
能力値:武:71 知:61 統:79 政:50 魅:72

説明文:
演義ではいつも負けている役にされて情け無い武将というイメージを持たれる方も多いかもしれませんが正史では勇猛果敢で数々の軍功を上げていると正反対に記されている。漢中争奪戦では劉備を2度も破り、街亭では馬謖を破り、陳倉では諸葛亮も破っている。曹真は誠実かつ清廉な人物であったようで部下に対しては常に苦労を共にしていた、政府からの恩賞が少ない時は自分の財産を部下に分け与えていた事もあり将兵からの支持は絶大であった。蜀征伐時に病気にかかり帰還後まもなく死去している。
もともとの姓は秦で父が曹操の身代わりになって殺された為、曹姓を賜ったらしく曹操との血のつながりない


性名:曹爽(そうそう) 字:昭伯(しょうはく)  生死年:?〜249
出身地:不明  役職:武衛将軍→大将軍
所属:
能力値:武:64 知:50 統:57 政:49 魅:61

説明文:
曹真の子で明帝には若い頃から可愛がられ重用され次々と昇進している。明帝が病に臥すと大将軍に昇進し司馬懿と共に世継曹芳の補佐を託される
司馬懿とは常に権力による駆け引きを繰り返し、ついには何の権限の無い太傅に司馬懿を祭り上げて実権を独占するようになる。その後は天子を軽視し独断による
採択で蜀領漢中に遠征し大敗するが行いは改まらず淫楽にふけった。司馬懿を恐れ部下に様子を見に行かせるが司馬懿はボケたフリをしそれを信じてしまう
その後司馬懿は着々とクーデターの用意をし翌年の正月、陵墓参拝の際司馬懿に武器庫を占領され、あっけなく実権を失い、三族もろとも処刑されてしまう
元々は司馬懿を父の様に慕っていた曹爽だったのですが周囲が彼をおだて段々と権力欲に浸ってしまったようです


性名:曹純(そうじゅん) 字:子和(しわ・しか)  生死年:?〜210
出身地:不明  役職:議郎→高陵亭候
所属:
能力値:武:62 知:51 統:55 政:44 魅:49

説明文:
曹仁の弟で曹操とは従兄弟にあたる。南皮包囲網戦に参戦し、
袁譚を討ち取る等の功績を上げる(演技では曹洪と言う事になっています)。長坂の
戦いでは劉備を追撃し、二人の娘を捕らえ、江陵を降伏させる。死去の後、威候と謚
されている。演義ではけっこうヤラレ役で、曹仁との南郡防衛時にも周瑜と趙雲にあっ
けなく城を取られている。


性名:夏侯惇(かこうとん・かこうじゅん) 字:元譲(げんじょう)  生死年:?〜220
出身地:沛国県[言焦]県  役職:裨将軍→折衛校尉→大将軍
所属:
能力値:武:93 知:46 統:92 政:72 魅:77

説明文:
字を元譲。沛国<言焦>県出身。曹操の従弟にあたる。十四歳のときに、師を侮辱した者を、家まで押しかけて行って殺してしまったという事件以来、気性の激しさで知られるようになる。追放され、各地を流離っていたが、曹操の反董卓の激に応じ、手勢を率いて駆けつけ、洛陽炎上の際は、徐栄を数合せぬうちに突き殺している。その後、夏候淵と共に各地を転戦。対呂布戦での、高順との一騎打ち。もちろん相手ではなく、相手は逃げ出したが、夏候惇は追い縋る。終いにはありったけの罵詈雑言を浴びせながら、陣営の周りをぐるぐると追いかけっこを始める始末。中からその様子を見ていた曹性、何とかして同胞を助け出そうと一矢放ち、それが見事に夏候惇の左眼に突き刺さってしまう。引き抜くとなんと目玉が一緒でる。それを「これは父の精、母の血、捨ててなるものか」と飲み込み(!)、槍を取り直し、敵陣に突進、曹性の顔面を串刺しにしてしまった。正史によると、曹陣営では夏候淵と区別をするために皆は夏候惇を“盲夏候”と呼んでいたが、彼はそれを嫌い、鏡を見るたびに叩き割ったという。関羽が関を破り、魏軍を去ろうとしたときは、斬られた五関の六将が皆の部下だったからか、単騎関羽を追いかけ、一騎打ちを挑む…が、張遼が曹操の手紙を持ってきたために、仕方なく引き下がった。新野の劉備攻めでは、諸葛亮の華々しい初陣のいいカモにされてしまう。自ら身体を縛って、曹操に処断を願い出たが、それまでの功により許された。曹丕即位後、曹仁・程イクと共に功労三臣として賛えられ、大将軍に任命されたが、曹操死後より一年、追うようにして死んだ。財を蓄える事はせず、質素な暮らし振りで、旱魃に見舞われると農業の指揮をし、洪水が起きると土塁を担いだ。曹操の信頼は絶大で、車の同乗や寝室への出入りも許されていた。また、はじめ彼は、魏の称号ではなく、漢の官職に就いていたが、曹操は「なぜ君が“魏”などという国に頭を下げる必要がある?」と、あくまで友人として接しようとしたが、頑固な夏候惇がしつこく言うのでついに魏の偏将軍に任命したという。


性名:夏侯淵(かこうえん) 字:妙才(みょうさい)  生死年:?〜219
出身地:沛国県[言焦]県  役職:別武司馬・騎都尉→征西将軍
所属:
能力値:武:92 知:57 統:90 政:56 魅:78

説明文:
夏候惇や曹操とは従兄弟にあたり、曹操が挙兵する前からの付き合いで曹操が事件を起こした時に身代わりとなって曹操を助けている。
のちに曹操に救出されてからは曹操に従軍し、戦場では急襲を得意とし、いつも敵の不意をつく攻撃をしていた。軍中では典軍校尉の夏侯淵、3日で500里、6日で1000里」と言われていた。西涼討伐では活躍し馬超率いる西涼軍を破り馬超を漢中に敗走させている。
漢中の張魯が降伏し曹操が平定すると漢中の守備を任され征西将軍に任命されている。
劉備軍が攻めてくると張[合β]を東の守備を任せたが敗れ、自軍の兵を半分さいて救援の駆けつけるも劉備軍の黄忠の猛攻を抑えきれずに定軍山で黄忠に討ち取られている


性名:夏侯覇(かこうは) 字:仲権(ちゅうけん)  生死年:?〜?
出身地:不明  役職:偏将軍→右将軍→車騎将軍
所属:魏→蜀
能力値:武:89 知:68 統:83 政:72 魅:73

説明文:
夏侯淵の次男である。父が蜀との戦いで戦死している為、蜀を仇と憎んでいた。勇猛さに優れ兵士や人民を可愛がったため人気があった。
夏侯玄の配下として属し従軍していたが曹爽が司馬懿に斬られると夏侯玄などにも出頭が命じられた。夏侯覇は出頭は危険だと察知し夏侯玄に出頭せず蜀に降ろうと持ちかけるも夏侯玄はそれを降り切り帰国し処刑される。その後、夏侯玄の代わりの上司として日頃から仲の悪い郭淮が来た為、それを嫌って蜀に降る。
その後、蜀でも礼遇され車騎将軍に任じられ、姜維の補佐として参軍し良く助けている。
蜀滅亡時には夏侯覇の名がない為それ以前の死んでいたようであるが、いつ何で死亡したかは不明である。
演義では魏との戦いで司馬望に石矢を浴びせられ戦死している。


性名:荀いく(じゅんいく) 字:文若(ぶんじゃく)    生死年:163〜212
出身地:穎川郡穎陰県  役職:守宮令→侍中→光禄大扶
所属:袁紹→魏
能力値:武:35 知:97 統:64 政:90 魅:84

説明文:
字は文若、「王佐の才」と称されたほど類稀な才能を備えた人物である。曹操に参謀として仕え、「我が子房なり」と言われ、非常に重用された。的確な献策と有能な人材の推挙などで、曹操の期待に大いにこたえる働きを見せた。曹操の覇業は荀いく無しには考えられないことであった。しかし、漢王朝の再興を目指す荀いくに対して、曹操は新王朝の樹立を目論んだのだった。曹操の魏公昇進に反対した荀いくは、空の器を贈られ、己の無用を悟り自殺したという。


性名:郭嘉(かくか) 字:奉孝(ほうこう)    生死年:170?〜207?
出身地:豫州潁川郡陽擢県  役職:司空軍祭酒
所属:
能力値:武:27 知:95 統:42 政:72 魅:89

説明文:
字は奉孝。荀イクの推挙で曹操に仕える。あらゆるエピソードから郭嘉こそが「三国志」における天才だという声も高い。特に彼の発言はあまりに遠大であり、それは予言の域に達している。病弱で早くに亡くなり、曹操の悲しみは深く、郭嘉を惜しみ、称える曹操の言葉が多く残されている。また、曹操との相性もよく、荀イクへの手紙の中で「奉孝こそはわしの心を理解していた男なのだ。天下の人で理解してくれるものは少ない。この事でも残念至極なのだ」と述べている。もう一つ、荀イクへの違う手紙の中では、こうも言っている。「かの人物が下した時事・軍事に対する判断は、はるかに人を超えていた」

次代を担う参謀として曹操に期待された天才軍師。若くしてその才能を発揮し、『曹操側に十の勝因あり、袁紹側に十の敗因あり』と曹操を激励した官渡での功績は多大。時代の流れを鋭く見極め、袁紹軍の内情や孫策の死を見事言い当てていた。ただ女癖が悪く、周囲の文官(特に劉曄)へのウケは悪かったようだが・・・。袁熙北伐の際、風土病にかかり三六歳の若さで死去。曹操は詩を以って嘆き、後の赤壁の戦いでも『奉公が生きていればこんな負け方はしなかっただろう』と惜しんでいる。


性名:許ちょ(きょちょ) 字:仲康(ちゅうこう)   生死年:?〜?
出身地:しょう県  役職:都尉→中堅→牟郷候
所属:
能力値:武:97 知:26 統:83 政:16 魅:68

説明文:
走る猛牛二匹を、両手に尾を持って引きずり戻すという恐るべき怪力の持ち主で『虎痴』とあだ名される。その名のとおり、智謀には欠けるところがあったが、呂布・関羽・張飛など、天下の豪傑と互角に戦う勇猛さ。若くしてすでに敵無し状態だった馬超に舌を巻かせ、槍を受け落馬した際に、自軍が突撃、無事救い出されるという話もあり、配下の人望も厚かった。そんな雰囲気からして、蜀の誰かさんのようにワアワアわめいているのかと思えば、曹操の側にちょこんと座っている。上司たちを敬い、自分をわきまえ、軍議でも無口だったという。典韋の後を継ぐように曹操のボディーガードになる。寝所に入ることができたのは、彼と夏候惇だけだったというから信頼も半端なものではなかったのだろう。死後、忠候と諡される。


性名:典韋(てんい) 字:不明     生死年:?〜197
出身地:陳留郡  役職:調査中
所属:
能力値:武:97 知:33 統:74 政:20 魅:56

説明文:
三国志の中でも壮絶で非業の死を遂げた人物として有名な人物と言ったら典韋でしょう。細かい事は伝わっておらず字もわからない。大柄で腕力は人並み以上の人物だったようである
やがて曹操の軍に従軍するようになり夏候惇の軍の配属され、度々軍功をあげ司馬に任命される。

曹操の呂布征伐では大暴れし一人の兵士に敵がきたら知らせる様に命じた、敵が近づくと兵士の掛け声にあわせ戟を投げ敵の攻撃を防いだそれは百発百中であったようである。その功により都尉に任命されると曹操の側近として使えるようになった。
いつも曹操の親衛隊を指揮し1日中曹操の側に待立し寝る間を惜しんで護衛した。自分の寝場所でゆっくり寝る事は稀であったようだ。
張繍が降伏すると曹操は張繍を招き宴を催した。その時も典韋は曹操の後を大斧もってひかえていた為、張繍等は震え上がって曹操を襲うことは出来ないでいた。
数日して張繍が背き曹操の眠る陣営の攻撃をしかけてきたとき、典韋は曹操を身をていして守り退却を助けた。その後も門に仁王立ち追撃をおさえ奮戦したが遂に力尽き敵を大声で罵倒しながら死んでいったそうです。


性名:張遼(ちょうりょう) 字:文遠(ぶんえん)   生死年:165〜221
出身地:雁門郡馬邑県  役職:郡吏→騎都尉→中郎将・関内候→晋陽候
所属:丁原→何進→董卓→呂布→魏
能力値:武:90 知:82 統:91 政:69 魅:85

説明文:
北方の騎馬民族の血を引き、本名は“聶遼”だという説もある。丁原に仕えていたが、洛陽にのぼった際に何進の指揮下に入り、何進暗殺後は董卓へ、董卓死後は呂布の幕下へと。対曹操戦でやっと仕えるべき君主を発見。関羽と仲がよく、小沛陥落で孤立したのを、一時的に降伏するよう説得た。勇敢な戦いぶりと軍を指揮する能力を兼ね備え、五将軍の筆頭に挙げられている。合肥へ孫権が十万の大軍で攻め寄せたときは、獅子奮迅、見事に呉軍を蹴散らした。このことで勇名は轟き、江東では『張遼が来る』というだけで子どもは泣くのをやめたという。後年病に倒れ、文帝は毎日のように食膳を見舞ったが、二二四年生涯を終える。


性名:徐晃(じょこう) 字:公明(こうめい)   生死年:?〜227
出身地:河東郡楊県  役職:騎都尉→平冠将軍→陽平候
所属:楊奉→魏
能力値:武:94 知:48 統:87 政:37 魅:72

説明文:
初めは車騎将軍・楊奉に従っていた。献帝を洛陽に逃がすよう進言したのは徐晃である。のちに曹操に帰順した。袁紹との戦いでは、彼の部将を説得して投降させたり、馬超討伐の時は、先立って黄河を渡り梁興の夜襲を撃退し、曹操を無事に渡河させたりした。中でも樊城を包囲していた関羽を破った功績は大きい。曹操は彼の活躍を孫子をも凌ぐものであると絶賛した。明帝の時代まで活躍しつづけた。彼は曹操という主を得たことを非常に誇りに思っていた。そのため、自分の名誉よりもまず主君の偉業に貢献できることを第一としていた。非常に慎重な性格で、不敗の状況だと判断するまで決して戦いを挑まなかったという。彼の功績はこの慎重さがもたらしたものなのかもしれない。

張遼、張コウらと共に「魏の五大将」と称された。
もともと楊奉に仕えていたが、友人の満寵の説得により曹操のもとへ降った。 常に慎重、冷静沈着かつ勇猛で曹操の信頼も非常に厚かった。
また兵士の教育においても一流で、徐晃の軍の兵士たちはみな徐晃を慕っていたという。 武器は彼のトレードマークとも言える斧矛であった。
がしかし、常に個人の利益ではなく主君曹操に対し手柄を立てることを第一義として生きてきた猛将の最期はあっけなく、西暦227年、静かに病没している。


性名:李典(りてん) 字:曼盛(まんせい)   生死年:?〜?
出身地:山陽郡鉅野県  役職:中郎将→裨将軍→破虜将軍
所属:丁原→何進→董卓→呂布→魏
能力値:武:72 知:46 統:70 政:38 魅:55

説明文:
配下の中でも、曹・夏候一族とともに挙兵時から付き従っている古参の将。慎重派で特に華々しい戦歴はないが、篭城&防御戦の専門家として力を発揮。新野の戦いでは、猛進する曹仁にブレーキをかけ、伏兵に遭った夏侯惇を救出した。赤壁の戦い後は合肥を守り、太史慈軍が城内に火を放ったときも冷静に対処、消火後は反撃に転じている。普段仲の悪かった張遼が協力を求めてくると『戦いとあっては日頃の関係とは別、喜んで指示を仰ごう』と言い、私情を交えず、ともに呉軍を撃破した。正史によると、一介の武人ではなく、知識をよく吸収し謙虚だったという。将来は文官としての活躍も期待されたが、二〇九年、三六歳の若さで病死した。


性名:楽進(がくしん) 字:文謙(ぶんけん)   生死年:?〜218
出身地:陽平郡衛国県  役職:帳下の吏→行遊撃将軍→右将軍
所属:
能力値:武:81 知:44 統:63 政:32 魅:75

説明文:
曹操が黄巾征伐のために挙兵したときから従軍していたというが、曹操によって無名の兵卒から見出されたという説もある。若いころは県の役所で文書係をしていたが、小柄な体からは想像もつかないほどの度胸で、常に敵陣に一番乗りを遂げ、いつのまにか部隊を指揮するようになったようだ。濮陽で呂布と戦ったときは、敵将・成廉を弓で射殺している。赤壁の戦い後は張遼の副将として合肥の守備にあたる。大軍を率いたという記録はないが、指揮官としての働きもまずまずだったらしく、曹操は彼を徐晃・于禁などとともに五将軍に任命している。濡須江の戦いでは甘寧に顔面を射られ、落馬。曹操自らの必死の看病により一命を取り留めたが、二十八年、病死。


性名:于禁(うきん) 字:文則(ぶんそく)   生死年:?〜221
出身地:泰山郡鉅平県  役職:軍司馬→安遠将軍
所属:鮑信→ 魏→蜀→呉→ 魏
能力値:武:72 知:69 統:80 政:40 魅:75

説明文:
元は鮑信の将であったが、曹操が現れると仲間と共に出頭し従軍するようになる。数々の軍功をあげるが張繍に曹操が負けたとき元黄巾の青洲兵が略奪をはじめ、それを于禁は処罰した。数人の青洲兵が逃げ出し曹操に虚偽の報告をし于禁を陥れようとしたが于禁は取り乱さずに陣形を整えてから冷静に曹操に謁見し実情を話しその後二人の信頼が深まった
軍において極めて冷酷無比な人物で、人身や部下の心をつかむ事はできなかった様だ
最後のほうは蜀に降伏したり呉に降伏したりと国を転々としてしまう、最後に魏に戻るが自分を恥じて倒れたまま亡くなる。


性名:賈ク(かく) 字:文和(ぶんわ)   生死年:147〜223
出身地:武威郡姑臧県  役職:郎→左馮翊→尚書→太尉
所属:牛輔→李かく→?→張繍→魏
能力値:武:30 知:96 統:75 政:72 魅:67

説明文:
孝廉に推挙され洛陽で役人として使えていたが、病気になって辞職。だが、故郷へ帰る途中に、運悪く賊に襲われ捕われてしまう。ここは乱世の切り抜け方を熟知していたのだろう。その地方の豪族・段氏の名を語り、『私は段家の親族だ。もし私を殺すのならば、他の者とは別に埋葬するがいい。家の者が十分な礼をするだろう。』と嘘八百並べ立てると、賊は彼の縄を解き、盟約を結んでまで送り返した。彼のいつでも臨機応変に対応できた能力は素晴らしいものだったのだろう。その後、再び討虜校尉に任じられ、董卓が暗殺されると、李カク・張済に長安攻略を立案。二人が呂布に敗れると、今度は張繍に仕え、その策略で何度も曹操を苦しめたが、官渡の戦いの際に張繍に曹操に降るよう勧め、それからは魏の陣営で戦略を献策した。しかし、降将の立場をわきまえ、重用されても奢ることなく、人付き合いは慎重でひっそりと暮らし、七七歳で世を去った。


性名:荀攸(じゅんゆう) 字:公達(こうたつ)   生死年:157〜214
出身地:不明  役職:黄門待郎→尚書令
所属:
能力値:武:38 知:92 統:60 政:93 魅:80

説明文:
荀いくの甥にあたるが、六歳年上。董卓暗殺を計画して投獄されていたが、荀いくの推挙で曹操に仕官した。外見は愚純に見えたが内に英知を秘め、曹操は彼を『外柔内剛の勇士』と褒め称えた。演義では、魏王に昇ろうとする曹操を諌め、『荀いくの二の舞になりたいか!』と一喝され、憤死したが、正史によると、二十四年・四七歳、孫権征伐の折に病死している。裴松之は彼を『夜光珠』と評している。小さな頃から只者ではなかったようで、こんなエピソードも残っている。…七歳の頃、酒に酔った叔父が誤って彼の右耳を傷つけてしまった。だが、彼は叔父の前でその右耳を隠していたため、ずーっと後になるまで叔父はそのことを知らなかった。幼い子どもにそんな風に気遣われ、叔父はちょっとショックを受けたが、同時に彼に期待をかけるようになったという。


性名:毛カイ(もうかい) 字:考先(こうせん)  生死年:?〜?
出身地:陳留郡平丘県  役職:治中従事→尚書僕射
所属:
能力値:武:63 知:46 統:48 政:75 魅:56

説明文:もとは平丘県の役人をしていた。曹操の目にとまり登用される曹操が丞相になると人事を担当するようになり数々の人物を推挙する、しかし彼が推挙する人物は清廉潔白な人物ばかりであった。本人も模範的な人物で謙虚に勤め金銭や権力に執着がなかったようだ。
彼は物怖じせずに他の人が言え無い事を曹操に進言し処刑を命じられてしまうが仲間の弁護もあり免職にとどめられている。
曹操は彼を認めていたらしく彼が亡くなったあと息子の毛機を取りたてている。


性名:董昭(とうしょう) 字:公仁(こうじん)  生死年:156〜236
出身地:済陰郡定陶県  役職:鉅鹿太守→司徒
所属:袁紹→張楊→魏
能力値:武:52 知:65 統:49 政:79 魅:58

説明文:
元々は袁紹に使えていた。弟が袁紹と対立していた勢力の配下であった為袁紹に疑われ命を狙われるようになり袁紹の元から逃げる。
曹操が献帝を擁立し西進した時には曹操の元に出向き帰順する。軍事物資補給等の後方支援で功をあげ千秋亭候に封ぜられる。
軍事と政治の両方の分野での才能がありたびたび活躍する。曹操に魏公・魏王を賜るとの上書したもの彼である。
いつも精気に満ちていて眉目秀麗、ルックスが良かった様で演義でもその事が強調されている。肉や魚を食する事を好まないベジタリアンだった様で飢饉でも平気だった様である


性名:陳珪(ちんけい) 字:漢ゆ(かんゆ)  生死年:?〜?
出身地:下べん国  役職:済北相
所属:陶謙→劉備→呂布→魏
能力値:武:18 知:69 統:28 政:77 魅:79

説明文:
徐州の安泰を願って一生を費やした人間。曹操の命により呂布の撲滅に暗躍する。呂布の娘と袁術の息子が婚姻する事を知り、それを災いの元と考えそれを阻止するべく呂布を騙し説得する。呂布は婚姻をやめ袁術の使者を捕らえさらし首にした。徐々に呂布の信頼を得る様になるが、最後は同士討ちをさせて小沛の城を乗っ取る。その後曹操に攻められ降伏、そのまま守護となる。


性名:陳登(ちんとう) 字:元龍(げんりゅう)  生死年:?〜?
出身地:下べん国  役職:公陵太守→伏波将軍
所属:陶謙→劉備→呂布→魏
能力値:武:26 知:70 統:40 政:72 魅:77

説明文:
陳珪の子で文武に優れ冷静沈着な人物であったらしい。袁術と呂布のが互いの子供を結婚させる事によって同盟関係になろうとする所を父の陳珪と共に阻止しその後も呂布に欺きながら使え呂布を撲滅に追いやった。曹操と内応していたらしい。
呂布の撲滅後はその功を認められ曹操に使え伏波将軍の位を付与され東城の太守なども任されている。この頃から歴史の表舞台からは姿を消し39歳の若さでなくなっている。死因としては刺身を食べて寄生虫に犯され死亡したと「華佗伝」には書かれているが本当の所は分からないようだ


性名:満寵(まんちょう) 字:伯寧(はくねい)   生死年:?〜242
出身地:山陽郡昌邑県  役職:督郵→従事→揚武将軍→太尉
所属:
能力値:武:38 知:81 統:72 政:69 魅:92

説明文:
早くから曹操に仕え、許都の令に任命されていた。任務を忠実に行い、信賞必罰、曹操は彼の働きぶりに喜んだ。最大の功績は、やはり旧友であり楊奉の部下だった徐晃を説得し、傘下に加えたこと。関羽との戦いでは曹仁の参謀として樊城を守る。水攻めに遭い、曹仁は撤退を提案したが『今、城を捨てて退却すれば黄河の南は全て蜀のものになってしまう』と篭城を説得した。また、明帝が曹休に呉を攻めさせたときも、曹休の実戦の経験不足を指摘し、守備を固め大敗を防いだ。曹操から四代にわたって重職を任されていて、財産などにも執着せず、人々にも人気があったという。


性名:張コウ(ちょうこう) 字:儁乂(しゅんがい)  生死年:?〜?
出身地:河間郡  役職:司馬→校尉→征西車騎将軍
所属:韓馥→袁紹→魏
能力値:武:93 知:61 統:88 政:54 魅:62

説明文:
最初は黄巾の討伐の兵員募集の応じて参加、韓馥に配下として属する。その後袁紹が冀州にやってくると袁紹に身を寄せるようになる。
公孫[王贊]などの討伐では数々の功を上げ寧国中郎将に昇進する。官渡の戦いでは同僚の郭図と作戦の事で対立、張コウの意見は採用されず結果袁紹軍は大敗を喫してしまう、郭図は自分の非を問われるのを恐れ、張コウを讒言し落し入れられ張コウは危険を感じ曹操に降る。曹操は韓信の例をだして大変喜んだ。
数々の戦いで戦功を上げるがその中でも最も記憶に残る物は街亭の戦いである。街亭の戦いとは孔明の北伐時馬謖に先行任せ孔明の忠告を無視して山の上に陣をはってしまう、張こうは冷静に判断し山を包囲して陣をはった水を汲む通路を断った、馬謖の軍は次第に水が足りなくなり張コウは馬謖の軍を壊滅させるのである。

この功により1000戸加増され4300戸の所領を持つようになった。これほどの待遇は異例の事である。
その後も度々蜀の北伐を防衛に参加した、その戦い時、敵が逃げたのを見て軍師の司馬懿が追えと命じ張コウは「逃げる敵は追う物ではない」と言ったが司馬懿は
その言を聞かず追う事を命じた張コウしかたなくその命に従い追撃途中伏兵にあい戦死している
おかしな事に「演義」ではその話しの立場が逆になっている張コウが司馬懿の止めるを降り切り追撃した事になっている。なんだか張コウが不憫です。


性名:程いく(ていいく) 字:仲徳(ちゅうとく)   生死年:?〜?
出身地:東郡東阿県  役職:寿張令→奮武将軍→衛尉
所属:
能力値:武:46 知:93 統:92 政:72 魅:77

説明文:
字は仲徳。元の名を“立”と言うが、若いころ泰山で太陽を奉げ持った夢を見たという話を曹操にしたところ、以後程いく(日+立)と改めるよう言われる。身長八尺三寸(計算すると2mを越える…)、頬から顎にかけてたくわえられた美髯、威風堂々たる容姿で、武将としての力量も十分、智勇兼備の将軍だった。出身地の東郡東阿県では、黄巾の乱が起きると、県令が任地から逃げ出してしまい、県民と官吏・官兵は大混乱に陥った。そこを程いくが、敵の数が少ないのを見て取り、県民を城内に避難させ、官軍を率いて賊を大破した。曹丕に三代功労者として夏侯惇・曹仁とともに名を挙げられている。


性名:劉曄(りゅうよう) 字:子揚(しよう)   生死年:?〜?
出身地:淮南郡成悳県  役職:司空倉曹掾→主簿→太中太夫
所属:
能力値:武:33 知:83 統:56 政:76 魅:79

説明文:
曹操に見出され、以後三代にわたって仕えているが、華々しい話題はなく、地味な存在だと思われている。だが、実際彼はかなりの無法者だったらしい。子供の頃、母親が臨終の床に彼と彼の兄・劉渙を呼び、『お父さんの側近は人に取り入って悪事をなす者です、おまえたちが大きくなったら取り除いておくれ。』と言い残した。劉曄は十三歳になると、十五歳の兄に遺言をを実行するべきだと話した。だが兄がそんなことはできない、と止めたので、劉曄は一人で奥の部屋に入り、その側近を殺してしまった。父親は怒ったが、『母上の御遺言に従いました、勝手な行動をした罰は受けます。』と言ったので、見所のあるやつだと許された。明帝・曹叡の信頼も厚く、臣下の者たちに、明帝の人柄はどうかと訊かれ、『秦の始皇帝、漢の武帝と肩を並べるお方だが、才略という点では少し劣る』と言ったという。


性名:文聘(ぶんぺい) 字:仲業(ちゅうぎょう)  生死年:?〜?
出身地:南陽郡宛県  役職:江夏太守→後将軍
所属:劉表→魏
能力値:武84 知:23 統:77 政:15 魅:56

説明文:
元々は荊州は劉表の忠臣で北方の守備を任されていた。劉表が死去し劉[王宗]が後継となると曹操は荊州に侵攻する。守備の劉備が敗走しいなくなると劉[王宗]新政権はあっけなく降伏してしまう。曹操が荊州を占領しても文聘はなかなか出頭してこなかった。曹操が理由を訪ねると「国を守る事もできずなんて恥ずべきことだろう、どの面さげてお会いする事ができましょうか」と言って涙を浮かべたらしい。曹操は忠臣を発見したとおおいに称え江夏郡の太守にし、関内候の爵位も授けた。

曹操・曹丕と忠実に使え江陵遠征時には石梵で呉軍をを撃退し功をなして、後将軍に昇進している。その後いつ死亡したかは、さだかではない。演義では若干違っていて、もう少し登場の場が多く細かく描かれている。劉備が荊州での敗走時に、襄陽に入れようとした魏延と打ち合っている事などで武力のある人物であったと世の中からは推察されているが、それは「演義」の話しのようで現実は定かではない。


性名:鍾ヨウ(しょうよう) 字:元常(げんじょう)  生死年:151〜230
出身地:穎川郡長社県  役職:尚書郎→前軍師→太尉→太ふ
所属:後漢→魏
能力値:武:15 知:62 統:16 政:70 魅:28

説明文:
後の魏の重要人物「鍾会の父」。子供の頃、叔父の鍾瑜.に大事に育てられ特に学問に専念していた
やがて学問などで頭角を現すと考廉に推挙され延尉正・黄門侍郎になった。
その後、都が混乱し李[イ寉]や郭[シ巳]などが支配しだすと献帝が長安から脱出するのに暗躍し尚書僕射に昇進する。
官渡の戦いでは曹操陣営で軍事物資が足らない中、馬2000頭を補給し曹操に「漢の蕭何のようだ」と言わしめた。
(蕭何=項羽と劉邦の時代で劉邦の腹心で政治や軍事物資などの補給でおおいにたすけた大人物)
魏が建国されると相国に任じられたが推挙した人物が謀反を企てたことから責任をとって免職している。
曹丕が王位につくと復活し大理となった。その後も順調に出世し明帝(曹叡)の時代には太傅にまで昇りつめ、亡くなった後は成候と諡されている。


性名:郭淮(かくわい) 字:伯済(はくせい)  生死年:?〜255
出身地:大原郡陽曲県  役職:平原府丞→鎮西長子→陽曲候
所属:
能力値:武:72 知:67 統:79 政:65 魅:54

説明文:
元々は考廉に推挙され中央政府で平原府の丞となっていたが、その後曹操に仕えるようになった。張魯征伐にしたがって従軍し、夏侯淵の配下として参戦する。そのまま漢中の守備を命じられた夏侯淵と共に、漢中に残り劉備軍の侵攻に備えた。だが実際には劉備との合戦の時、郭淮は病にかかっていて参加する事ができず、軍は敗走し夏侯淵は黄忠に打たれ戦死してしまった。そのため指揮官を失って混乱する兵士を静め、残兵をあつめて、副将であった張[合β]のもとまで連れ行き軍を立て直した。その後30年にわたり西域をまもり度々功をあげ昇進し、最後は陽曲候にまでのぼりつめていた。孔明の策略は苦手だったらしいが、姜維にはあまり負けていない。司馬懿の配下であったがあまり目立たない存在で「演義」ではヤラレ役っぽい。


性名:かく昭(かくしょう) 字:伯道(はくどう)  生死年:?〜255
出身地:隴西郡大原県  役職:部隊長→雑号将軍
所属:
能力値:武:84 知:83 統:87 政:80 魅:84

説明文:
若い時から軍隊に入り、部隊長へと昇進する。黄河西の辺境で蛮族などの攻撃を防ぎ、軍功をあげると雑号将軍に昇進した。その後も度々窮地を乗り越え軍功を重ね、河西地帯を10年以上も統治。その仁を人民は慕い、異民族は恐れて服従しという。陳倉の守将に命じられたていた時、蜀では諸葛亮の第二次北伐が開始され、陳倉の城は数万の蜀軍に包囲されてしまった。対してかく昭率いる魏軍は数千。数から言っても分が悪く、しかも相手は大軍師孔明だった。通常から考えても守りきれる物では無いと思われたが、魏にとって陳倉は重要地点、負けるわけには行かなかった。蜀軍は雲梯や衝車・井欄・土嚢などで次々と攻撃をしかけてきた。しかしその攻撃を防ぎ、魏の援軍が来るまで守り抜いた。その功績を明帝は大いに褒め称え、列候の爵位をあたえた。明帝はさらにかく昭を重用しようとしたが、その前に病にかかり亡くなっている。


性名:公孫淵(こうそんえん) 字:不明  生死年:?〜238
出身地:不明  役職:車騎将軍・仮節→燕王
所属:
能力値:武:77 知:64 統:76 政:60 魅:74

説明文:
今で言う満州のあたりを治め、袁家滅亡時に袁尚の首を曹操に送り届けて左将軍に任じられた公孫康の子供
その時彼はまだ幼く後継は弟の公孫恭になった。しかし公孫恭は凡庸で国を治める力が無く性的にも不能者で後継者を残すことができないのにつけこみ位を奪い取ってしまう。

元々野心家で義理や正義などは持ち合わせていなかったようで、自分や金中心に物事を考える人物だったようだ。魏に使える裏で呉とも通じており燕王と認めさせている。魏にも忠誠を示す事も無く237年には刺史を斬って燕を建国する。翌年すぐに司馬懿が討伐軍を組織し出兵。燕軍はもろくもやぶれ城を包囲された、やがて食料もそこをつき逃げ出すも捕まって斬殺されている。


性名:鐘会(しょうかい) 字:士季(しき)  生死年:225〜264
出身地:穎川郡長社県  役職:秘書郎→使徒
所属:
能力値:武:82 知:95 統:84 政:87 魅:79

説明文:魏の太傅にして、「蕭何のようだ」と曹操に言わせた鐘ヨウの末子。幼い頃から神童ぶりを発揮し、周りの大人からは将来を有望視されていた。出仕するようになると秘書郎に任じられ、その後尚書中郎将に昇進する。廃帝曹髦が帝位する頃には関内候になる。討伐戦には司馬師の配下で作戦本部の謀士として参加し活躍。司馬師の死後も、司馬昭の政権下で同様の地位を務める毋丘倹・諸葛誕などの討伐で参謀をつとめ、次第に司馬昭などから信頼をうけ張良(前漢の謀臣・劉邦の先生)のようだともてはやされた。蜀攻めの計画を司馬昭とともに計画し、263年秋に討伐の命をうける。侵攻は鍾会の軍と、トウ艾の軍の二方から進む事になるが、途中鍾会の軍は姜維率いる蜀軍と遭遇し激しい抵抗に合って、蜀入りをトウ艾の軍に先を越されてしまい、劉禅降伏の功を逃すことに。その頃からトウ艾とはあまりそりが合わなった。次第に鍾会は自立の野心を抱くようになり、姜維と組んで独立を計画。手始めに邪魔なトウ艾を「反逆の疑いがある」と密奏して捕える。その後征伐時の自軍と姜維の元蜀軍で都に攻め入ろうしたが、司馬昭はそれを見ぬいていて事前に軍を出していた。焦った鍾会は急いで成都に戻るが部下に裏切られ姜維と共に殺される。


性名:とう艾(とうがい) 字:士載(しさい)  生死年:?〜264
出身地:南陽郡棘陽県  役職:都尉学士→尚書郎→太尉
所属:
能力値:武:85 知:92 統:93 政:81 魅:75

説明文:
幼い頃に父をなくし汝南地域で細々と牛飼いで生計を立てていた。元々才能があったようで都尉学士になるがドモリだったため幹佐にはなれず農務官の職についた。世間ではよく馬鹿にされていたが典農網紀となって都に転勤すると司馬懿に才能を見出され尚書郎に昇進させ中央に召し出した。
将となって国の防衛にも力を注いだが「本当の強い国を作るには農業の発展が必要だ」とかんじて色々な立案を司馬懿に伝えている。
姜維の北伐を何度も防ぎ多くの功を上げると次々と昇進し領地は6600戸にまでなっている。
263年秋の蜀征伐の詔勅が降ると鍾会と共に蜀へ向かうことになる、その時相国に劉寔は「おそらく蜀には勝つが二人とも2度と魏には戻らないだろう」と予言した。鍾会が攻めあぐねている所にトウ艾は難なく成都に攻め入り劉禅を降伏させる。その功で太尉に任じられるが、鍾会に妬まれ「反逆の意がある」密奏されて捕えられてしまう。その後反逆は鍾会にあったとして元の部下によって救い出されるが反対勢力により討ち取られてしまう。


性名:諸葛誕(しょかつたん) 字:公休(こうきゅう)  生死年:?〜258
出身地:瑯邪国陽都県  役職:尚書郎→驃騎将軍・青州牧・寿春候
所属:魏→呉
能力値:武:82 知:71 統:74 政:59 魅:84

説明文:
諸葛豊の子孫で、諸葛孔明の血縁にあたる。若い時から魏に仕えて昇進をかさねた。朝廷において名声を集め、人民にも人気が高かったが、時の皇帝・曹叡に嫌われ無実の罪で免職に追いやられてしまう。だが曹叡の死後は再び登用される。反乱鎮圧の命で各地に派遣され、手柄を重ね出世するが、周りの人間が多く殺され、このままでは自分の立場も危ないと思い恐怖を感じるようなり、ついにはその恐怖心から呉を巻き込んで反乱をおこしてしまう。呉も援軍を送り魏軍と戦うが、敗戦を重ねた上、最後は腹をたてた呉軍の将に殺されてしまう。


性名:文欽(ぶんきん) 字:仲若(ちゅうじゃく)  生死年:?〜258
出身地:礁郡  役職:五営校督→前将軍→都護・仮節鎮北大将軍
所属:魏→呉
能力値:武:81 知:39 統:74 政:32 魅:55

説明文:
文欽の父は数々の功績を立てた文稷である。若い頃から武勇で名を馳せたが、気の荒い性格で礼儀をわきまえない人物であったため、周りの人間からはあまり好かれていなかった。一度他の人間が反乱を起こした際に連座し処刑されかけたが、曹操は父の功を考えて彼を許した。その後、たびたび戦功をたてたが、横柄な態度はなおらず、その上横領などもみつかり、王陵の上奏により召還させられたが、曹爽には気に入られていたため事件の取調べもなく、昇進した。そのためますます傲慢になっていったという。曹爽死後、後ろ盾をなくし少し静かになったが内心は危惧の念を抱いていた。後に呉に降り、時の大将軍・孫峻に厚遇され高い位に就任するが、呉でも傲慢な態度は改まらなかった。そのため呉の人間からも反感を買っている。魏で諸葛誕が反乱を起こし呉に救援を求めてきた際に、呉の軍に随行するが諸葛誕とは意見が合わず殺害されてしまう。


性名:劉延(りゅうえん)  生死年:?〜?
出身地:ふめい  役職:東郡太守
所属:
能力値:武:44 知:41 統:51 政:48 魅:39

説明文:
200年の有名な袁紹との官渡の戦いの際、白馬にいた劉延は袁紹に攻撃されピンチであったが。荀攸の策にて敵将顔良の軍を打ち破る。演義では少し違い、劉備の下へ向かう関羽を迎える役で登場


性名:司馬懿(しばい) 字:仲達(ちゅうたつ)    生死年:179〜251
出身地:河内郡温県  役職:文学掾→驃騎将軍→大尉→丞相
所属:魏→晋
能力値:武:82 知:97 統:94 政:91 魅:85

説明文:
名は司馬懿。字は仲達。君主である曹操から絶大なる信頼を得、蜀の諸葛亮と激闘を繰り返した天才的な軍師。曹操、曹丕、曹叡と仕え、曹操には文官、曹丕には宰相として仕えた。
曹叡が即位すると、荊州と予州の全権をあたえられた。そして、諸葛亮孔明が北伐をすると、それにつこうとした孟達を討ち、孔明の中原制覇の志をくじいた。諸葛亮との戦いにおいては、攻撃よりも守りを中心としていた。五丈原の戦いの途中、孔明が陣中で没っした。その機に戦をしかけようとしたところ、司馬懿は孔明の姿(生き人形)を目撃。すぐさま自陣に逃げ帰ったという。これは「死せる孔明、生ける仲達を走らす。」といわれ、後世まで語り継がれたと言う。


性名:司馬師(しばし) 字:子元(しげん)    生死年:208〜255
出身地:河内郡温県  役職:散騎常侍→長平郷候→撫軍大将軍→大将軍
所属:魏→晋
能力値:武:66 知:90 統:81 政:83 魅:74

説明文:

魏の大軍師・司馬懿の嫡子で、その才もあって若くして有名であった。父の朝廷への影響力により初めから高い官職の散騎常侍から始まり、その後も華やかなエリートコースを歩んでいく。249年魏朝廷を専横していた曹爽派へのクーデターを、父・司馬懿と共に決起しする。成功後はその功績により長平郷候
に昇進する。 父・司馬懿が没すると、父の旧職を引継ぎ撫軍大将軍となり、さらに252年には大将軍となり魏の全権を一手に握り、司馬氏の影響力は甚大になった。
 それを快く思わない人物も多く、そういった反司馬氏勢力は司馬師を廃しようと画策し、クーデターがおきてしまう。その計画に皇帝の曹芳も関与していた事を知った司馬師は、独断で皇帝を廃位し、後継に曹丕の孫・曹髦を即位させる。その独裁的なやり方は多くの反発を招き、翌年司馬師打倒を誓った毋丘倹と文欽が挙兵する。その報を知った司馬師は、眼下の瘤をとった手術の傷が直らないまま出陣してしまい、戦闘中に眼球が飛び出してしまい、その後その傷が悪化して没する。


性名:司馬昭(しばしょう) 字:子上(しじょう)    生死年:211〜265
出身地:河内郡温県  役職:典農中郎将→征蜀将軍→大将軍→晋王
所属:魏→晋
能力値:武:65 知:90 統:79 政:88 魅:71

説明文:
名は司馬昭、字は子上。魏の軍師・司馬懿仲達の次男。司馬懿の死後、兄の司馬師とともに権勢をふるった。そして、司馬昭の子には、三国時代を統一した晋の武帝・司馬炎がいる。その兄・司馬師が死ぬと大将軍の位をつぎ、蜀を平定し、晋王となった。しかし、呉を平定することができずに、皇帝になれるという直前で息絶えてしまった。そしてその子、司馬炎が統一することになったのだが、その基盤を作ったのは、彼だといっていいだろう。


性名:司馬炎(しばえん) 字:安世(あんせい)    生死年:236〜290
出身地:河内郡温県  役職:中掾軍→晋王→初代晋皇帝
所属:
能力値:武:85 知:74 統:93 政:52 魅:70

説明文:
名は司馬炎。字は安世。晋の初代皇帝(武帝)。手はひざの下まで届き、立つと髪が地面の届くほど長かったという。あと少しで皇帝になろうとする直前で世を去った父である司馬昭の基盤を使いながら、晋を建国。自ら、その帝位についた。280年には呉を降伏させて、三国時代を完全に終わらせ、全国統一をした。しかし、その後わずか10年で、この世を去ってしまった。


性名:王濬(おうしゅん) 字:士治(しじ)    生死年:206〜285
出身地:弘農郡湖県  役職:巴郡太守→輔国大将軍→歩兵校尉
所属:魏→晋
能力値:武:86 知:79 統:85 政:72 魅:80

説明文:晋建国と同時に重用され巴郡太守となる。最後の呉討伐に参加し蜀・成都から呉の都・建業を目指した。進軍は調子良く連戦戦勝で他のコースから進軍していた軍隊より一番早く建業到着し呉帝の孫晧を降伏させた。


性名:賈充(かじゅう) 字:公りょ(こうりょ)    生死年:217〜282
出身地:河東郡襄陵  役職:大将軍長史→史空→太宰
所属:魏→晋
能力値:武:30 知:90 統:53 政:81 魅:61

説明文魏の功臣にして有能な政治家でもあった賈逵が晩年に授かった子。父を若くして失うが、その葬儀のときの孝行ぶりが評判となり父の官職を引き継ぐ事となり、その後も順調に昇進する。司馬師の毋丘倹討伐時に従軍し、重病の司馬師帰還後に後の指揮を任され、見事に討伐し功を立てる。 また曹髦が司馬昭を誅殺しよとした際にも活躍し、賈充は他の者に帝を殺させ司馬昭の責任を問われないように画策した。 司馬昭からの信頼も厚く、その後も要職を歴任し、天下統一に貢献しつつ晋国建国を見届けて死去。


性名:杜預(どよ) 字:元凱(げんがい)    生死年:222〜284
出身地:京兆郡杜陵  役職:尚書郎→征南大将軍→司隷校尉
所属:
能力値:武:86 知:83 統:84 政:71 魅:75

説明文:父親も魏に使えていたが、司馬懿とそりが合わなかったため、子の杜預も久しく重用されなかった。その後、時の実力者司馬昭の妹と結婚し、それからは出世コースを歩みはじめる。その後鍾会の蜀討伐に副官として従軍するが、討伐中に鍾会が蜀軍の大将・姜維と手を結び反乱を起こしてしまう。多くの魏の将はその巻き添えで死亡するが、杜預は難を逃れて帰国。280年、羊この後を継ぎ、呉を討伐し長江流域を平定する。その後、治水工事を行うが上京中に病死する。


以上

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