三国志ブランド「赤兎馬」がおくる三国志Tシャツ、三国志グッツの専門店「三国志ショップ赤兎馬」



姓名:孫堅(そんけん) 字:文台(ぶんだい)    生死年:156〜192
出身地:呉郡富春県  役職:仮の尉→長沙太守→破虜将軍
所属:朱儁→張温→袁術
能力値:武:95 知:84 統:94 政:68 魅:93

説明文:
呉郡富春県出身。字は文台。十七歳のときに父親に付き従って海賊を退治し、その名を馳せた。会稽郡で許昌親子が反乱を起こすと鎮圧し、塩トク郡の丞に任じられる。黄巾の乱が起きると、兵を率いて討伐に向かい、そのめざましい活躍により長沙の太守に任命された。董卓が都を支配し暴政を始めると、曹操の激に応えて反董卓連盟に参加し、洛陽への一番乗りを果たす。“関羽が華雄を斬り、戻ってくると酒はまだ温かかった”という話があるが、正史によると、華雄を斬ったのは孫堅であった。しかし孫堅の実力を疎み、兵糧係の袁術が兵糧を送らなかったため、やむなく董卓追撃を諦めることになる。董卓が焼き払った洛陽復興にあたった孫堅は、井戸の中から、手にしたものは天下を得るといわれる“伝国の玉璽”を発見し、病と偽って本拠地へ帰ろうとする。だが玉璽を持ち帰ろうとしたことがバレて、袁紹に命じられた劉表に追討をかけられることに。どうにか逃げ切ったものの、その後劉表とは争いが絶えなくなったという。また、この二つの出来事が元凶となり反董卓連盟の団結は砕かれ、董卓を追い詰めることができないまま解散となったのであった。
 その後孫堅は、劉表の武将・黄祖との戦いの中、カイ越の罠にかかり、全身に石や矢を浴びて死亡、三七歳だった
。董卓は、孫堅と袁紹さえいなければ…と思っていたので、彼の死の報せを聞いて喜んだが、生きていれば曹操の最大のライバルになったのは間違いないだろう。己の武力に自信があったために『血気にはやり、単騎猛進し命を失う』結果になった。このとき息子の孫策は十七歳。皮肉なことに、数年後、彼も父と同じ過ちを繰り返すことになる。


姓名:孫策(そんさく) 字:伯符(はくふ)    生死年:175〜200
出身地:呉郡富春県  役職:懐義校尉→折衛校尉→討逆将軍
所属:袁術→呉
能力値:武:93 知:85 統:95 政:69 魅:92

説明文:
父親が死んだときはまだ十七歳で、後を継ぐための国の地盤が十分ではなかったため、一時は袁術に吸収されていた。二一歳になったとき“伝国の玉璽”をかたに、亡き父の残した三千の兵を譲り受け、伯父の加勢に行くと偽り出兵。幼馴染みの周瑜を幕下に入れ、江東の二張と呼ばれる張昭・張紘を招き、旧臣ともに会稽の厳白虎をあっという間に撃破した。人々は江東に孫家が戻ってきたのを喜び、孫策の勇猛さから、覇王・項羽の名を借りて“小覇王”と呼んだ。再び袁術に三千の兵と玉璽の交換を求めたが断わられ、曹操に大司馬の位を要求したがそれも跳ねつけられ、両者と敵対。その後呉郡で謀反の計画があり、怒った孫策は呉郡太守を処刑した。それを恨んだ者が今度は孫策暗殺を企て、刺客の毒矢を顔に受け重態となる。一説によるとその後、于吉という仙人を殺したため崇り殺されたともいわれる。一度は完治しかけたが、ふと鏡を見ると、傷に蝕まれ昔の勇壮さは名残もなく、癒えない傷を破ってしまい、弟の孫権と補佐の周瑜に後事を託し、そのまま二六歳で息絶えた。父親似の勇猛さに加えての短気さがアダとなった死に方であった。


姓名:孫権(そんけん) 字:仲謀(ちゅうぼう)    生死年:182〜252
出身地:呉郡富春県  役職:陽羨県長→討虜将軍→大将軍→呉皇帝
所属:君主(呉)
能力値:武:82 知:87 統:89 政:73 魅:97

説明文:
いわずと知れた呉の初代皇帝。孫堅の次男で、孫策の弟にあたる。孫堅と孫策が築いた呉の基盤を引継ぎ、蜀や魏とともに三国鼎立時代を築いた人。若くして急死した兄の後を継いだ孫権は、蜀と組み、東時最大の国であった魏を赤壁の戦いで破った。しかし呉の策略は、魏と蜀が戦いつかれたときに両方を同時に討つという作戦だったため、晩年は積極的には出兵しなかった。周瑜死後には陸遜を総大将にした戦いもあったが、最後まで陸遜を信用できなかった孫権は、後継ぎ問題から10人以上を死に追いやることにもなったのである。そして、71歳でこの世を去った。


姓名:孫桓(そんかん) 字:叔武(しゅくぶ)    生死年:197?〜?
出身地:不明  役職:安東中郎将→建武将軍
所属:
能力値:武:71 知:60 統:75 政:52 魅:73

説明文:
元の姓は愈。孫策から孫姓を賜った孫河の3男。25才で安東中郎将となり、劉備の呉侵攻に対する防衛にあたる。最初劉備は圧倒的な勢いで勝ち進み、孫桓は夷道において劉備に包囲されてしまう。だが劉備が陸遜の計にかかり、孫桓も自ら奮戦し、劉備軍は敗走。さらに退路を次々と遮断し、劉備は命からがら逃げ延びることとなった。劉備は「わしが昔、京城にいた頃は小童だったのに、現在わしをここまで追い詰めるとは・・」と嘆息したという。孫桓はこの功績で建武将軍となり、丹徒侯に封じられた。のち牛渚の督に任じられ、横江の砦を築いている時に急死してしまう。



姓名:孫ゆ(そんゆ) 字:仲異(ちゅうい)    生死年:177〜215
出身地:不明  役職:恭義校尉→奮武将軍
所属:
能力値:武:65 知:54 統:72 政:55 魅:72

説明文:
孫堅の弟・孫静の次男。物語中では多くは登場しないが、とても人望が厚く兵や人民には人気があった。丹楊太守を任じられた際には彼を慕って各地から1万人以上の兵が集まった。周瑜や孫権と共に戦い呉に貢献した。学問を好み、いつも書物を手放さなかったと言う。


姓名:孫静(そんせい) 字:幼台(ようだい)    生死年:?〜?
出身地:不明  役職:奮武校尉→昭義中郎将
所属:
能力値:武:61 知:62 統:62 政:59 魅:63

説明文:呉国の祖・孫堅の弟で共に旗揚げを手伝った。その後も孫策・孫権と三代に使え、孫策の時代には先鋒として活躍した。子の孫静、曾孫の孫峻・孫りんなど子孫が呉の重用ポストについている。


姓名:孫朗(そんろう) 字:早安(そうあん)    生死年:?〜?
出身地:呉郡富春県  役職:不明
所属:
能力値:武:55 知:54 統:44 政:61 魅:54

説明文:
呉国の祖・孫堅の子で孫策・孫権の弟。あまり歴史に登場しない、演義にしても同じで孫策が臨終する際に登場するだけ。ここらへんの呉の歴史はハッキリしていなし点多く、孫朗と孫匡が混じってしまっている。


姓名:孫亮(そんりょう) 字:子明(しめい)    生死年:243〜260
出身地:不明  役職:第2代呉皇帝→会稽王
所属:
能力値:武:27 知:80 統:29 政:64 魅:88

説明文:
孫権の七男だが、演義では三男となっている。非常に聡明であったとされる。母親は、後に皇后に立てられた潘夫人。孫権の後を継いで呉の皇帝となる。帝位を継いでからは、諸葛格・孫峻らの専横に苦しめられた。そこで全尚や劉丞とともに孫峻誅殺の謀り事を巡らすが、事前に計画が漏れて失敗。帝位を廃され、会稽王に位を落とされた。正史では侯官侯に落とされている。そしてその後自殺。一説によれば、新皇帝の孫休に毒殺されたとの説もある。


姓名:孫登(そんとう) 字:子高(しとう)    生死年:209?〜241
出身地:不明  役職:東中郎将→呉太子
所属:
能力値:武:93 知:85 統:95 政:69 魅:92

説明文:
孫権の長男。生母の身分が低かった為、徐夫人が母親代わりとなって養育した。孫権が呉王になると、皇太子に立てられる。「太子の四友」と呼ばれた、諸葛格、張休、顧譚、陳表らに補佐された。温厚で思慮深く、親思いの人物とされる。孫権が弟の孫和に目をかけているのを知り、孫和を皇太子にする様に、という遺書を孫権に送った後で死亡。時は二百四十一年、まだ三十三歳の若さだった。彼が帝位を継げば、歴史は変わっていたかもしれない。


姓名:孫和(そんか) 字:子孝(しこう)    生死年:224〜?
出身地:不明  役職:東中郎将→呉太子→南陽王
所属:
能力値:武:36 知:48 統:35 政:51 魅:77

説明文:
孫権の次男。孫登の後を継ぎ皇太子となる。しかし孫権の娘の全公主に讒言された為、太子を廃された。この時、朱拠、屈晃らは命がけで反対した。そして幽閉され、孫峻に自殺を迫られて死亡。その後、息子の孫皓は孫休の後を継いで帝位につき、孫和は文皇帝と諡された。呉の最後の皇帝、孫皓の教育はしっかりして欲しかったものだ。


姓名:周瑜(しゅうゆ) 字:公謹(こうきん)    生死年:175〜210
出身地:廬江郡舒県  役職:建威中郎将→偏将軍
所属:
能力値:武:78 知:98 統:97 政:89 魅:97

説明文:
No.1美男子といえば彼。孫策とは義兄弟の契りを結んでいる。二一歳の若さでデビューし、『美周郎』とアダ名された。音曲にも秀で、舞は人々を酔わせる。都督に任命され『心を通わすことができるのは君と魯粛だけだ』と孫権から絶大な信頼を得る。重臣たちが曹操への降伏を進める中、頑として開戦を勧め、『連環の計』『苦肉の計』などを駆使して形勢を逆転、見事に勝利へと導いた。惜しくも三六歳で病死。


姓名:魯粛(ろしゅく) 字:子敬(しけい)    生死年:172〜217
出身地:臨淮郡東城県  役職:東城県長→賛軍校尉→横江将軍
所属:袁術→呉
能力値:武:57 知:92 統:80 政:95 魅:90

説明文:
周瑜の後継者となった大資産家。生家は資産家で気前のいい性格だった彼は、周瑜が数百万の部下を抱えて困っていた所、魯粛は三千石の食糧を簡単に提供し周瑜を感嘆させ、二人は無二の親友となった。
周瑜の推挙によって孫権に仕えるようになる。赤壁の戦いでは劉備と同盟して曹操に対抗することを提唱し、呉を勝利に導く。演義ではお人好しで弱々しく書かれているが、正史では大活躍している。最近では蒼天航路などでも活躍し、強気の魯粛として書かれてる。


姓名:陸遜(りくそん) 字:伯言(はくげん)    生死年:183〜245
出身地:呉郡呉県  役職:東曹令史→大都督→丞相
所属:袁術→呉
能力値:武:81 知:97 統:97 政:87 魅:95

説明文:
呉の四代目大都督。荊州攻略時、自分の無名を利用し関羽を油断させ、呂蒙の奇襲を助けた。その後劉備が仇討ちに攻めこんでくると、かん沢の推挙によって呂蒙の後を継ぎ大都督となる。古参の武将は役不足と馬鹿にするが、蜀軍の七百里に及ぶ長大な陣に火攻めを仕掛け、大勝利を収めた。劉備の追撃時は諸葛亮の八陣図に翻弄され退却するが、その後も大きな敗戦無く丞相にまで昇り詰める。しかしその翌年皇太子問題で孫権の激鱗に触れ、憤死に追い込まれた。演技ではこの事は書かれず、五丈原での戦以降いつの間にか姿を消している。


姓名:黄蓋(こうがい) 字:公覆(こうふく)    生死年:?〜?
出身地:霊陵郡泉陵県  役職:郡の役人→武鋒中郎将→偏将軍
所属:
能力値:武:85 知:68 統:83 政:47 魅:82

説明文:
鉄鞭の使い手で、孫堅、孫策、孫権の孫家三代に仕えた。赤壁の戦いの時は開戦派で、周瑜と「苦肉の計」を提案。そしてスパイ紛れる諸将の面前で周瑜との不仲を装い肉刑を受け、曹操に偽りの投降を申し出る。計略は成功し、先鋒として曹操軍に突入し火を放ち、赤壁の勝利の立役者となった。演義では赤壁以後活躍の場面は無いが、正史によれば黄蓋は山越討伐で度々功を立てた異民族対策のエキスパートであり、その後も武陵の少数民族対策で活躍している。なお、正史では「苦肉の計」は行われていない。


姓名:程普(ていふ) 字:徳謀(とくぼう)    生死年:?〜?
出身地:右北平郡土垠県  役職:郡の役人→裨将軍→蕩寇将軍
所属:
能力値:武:82 知:68 統:85 政:72 魅:86

説明文:
鉄脊蛇矛を用い孫堅、孫策、孫権の三代に仕え数々の戦功を挙げた。赤壁の戦いの時副都督となり、大都督となった周瑜の下につくことを不満に思うが、周瑜の見事な采配に感嘆し、謝罪する。気前や面倒見が良く、古参の武将の中でも親しまれた。蕩寇中郎将、零陵大守、裨将軍、江夏大守、南郡大守、蕩寇将軍と昇進。反逆者百人を火の中に放りこんで焼き殺した日、病にかかり、百日後に死亡したと正史に記されている。


姓名:陸抗(りくこう) 字:幼節(ようせつ)    生死年:226〜274
出身地:不明  役職:建武校尉→大司馬
所属:
能力値:武:72 知:80 統:94 政:72 魅:85

説明文:
陸遜の子。陸遜が死ぬと建武校尉となり、陸遜配下の兵士五千人を引き継ぐ。遜皓の時代に活躍。歩闡の反乱、晋の羊コ、楊肇の進軍が相次ぎ、いずれの戦いでも指揮をとった。襄陽攻略はで羊コと互いを認め合い、平和的な対峙を十年余にわたって続けた。陸抗が病に臥せった時、羊コから薬が贈られ、毒に違いないと言う部下を諭し薬を飲んだ事もある。しかしこのやりとりで孫皓に敵と内通していると疑われ、兵権を剥がされ司馬に降格された。陸抗がいなくなると、羊コは呉征討を主張した。功績があっても奢らない性格で、部下から信頼された。正に名将陸遜の血を受け継いだ息子と言えよう。


姓名:朱然(しゅぜん) 字:義封(ぎほう)    生死年:182〜249
出身地:不明  役職:折衝校尉→昭武将軍→左大司馬
所属:
能力値:武:76 知:38 統:67 政:24 魅:56

説明文:
呉の名将。孫策の仲立ちで朱治の養子となった。孫権と机を並べて勉強した為、朱然、孫権両者の絆は深い。呂蒙に従って荊州を攻略。敗走する関羽を潘璋と協力して捕虜にした。劉備が仇討ちの為攻めてきた時は、孫桓に従い出陣。呉班の計略にはまるところだったが、崔禹の助言で助けられる。演義では、劉備が敗走するのを追う途中に趙雲に斬られた。正史ではそこでは死なず、陸遜亡き後も呉軍の重鎮として活躍。体は小さかったが、気さくで質素を好み規律正しい武人だった。病死した時は孫権自ら哭礼を行なうほど惜しまれた。


姓名:祖茂(そも) 字:?      生死年:?〜?
出身地:不明  役職:不明
所属:
能力値:武:70 知:62 統:60 政:58 魅:83

説明文:
孫堅に仕えた武将で、二刀流の使い手。反董卓連合軍に参加した孫堅が、董卓配下の華雄の夜襲にあった。そこで孫堅は逃げる時、祖茂に自分の赤い頭巾をかぶせ、自分は祖茂の兜をかぶった。敵兵は祖茂を孫堅だと思い、祖茂に敵兵が引きつけられている間に孫堅は無事逃げられたという。そして祖茂は孫堅の身代わりとして華雄に斬り殺された。演義では、祖茂は自分から孫堅の頭巾をかぶったとされる。祖茂は孫堅配下として、黄蓋、程普、韓当と並び称される武将だった。


姓名:董襲(とうしょう) 字:元代(げんだい)      生死年:?〜?
出身地:会稽郡余姚県  役職:別部司馬→偏将軍
所属:
能力値:武:70 知:37 統:64 政:36 魅:51

説明文:
身の丈八尺の猛将。孫策が手こずった呉郡の厳白虎の首級を挙げて、別部司馬に任じられた。赤壁の戦いでは曹操の陣に斬り込み、合肥では張遼に敗れた孫権を救出する。他にも黄祖の討伐などで活躍。山陰に巣食う族徒、周勃と黄龍羅を斬り果たすなど功績が大きかった。第二次濡須口の戦いでは、徐盛とともに大船五十艘を授けられて出陣。戦いの最中嵐に襲われたが、小舟を下ろして逃げようとする兵士を大喝して持ち場を離れなかった。しかし船は結局転覆し、董襲は水中に投げ出されて溺れ死んでしまった。宣城で山越に重傷を負わされた周泰のために、知人の会稽郡吏虞翻を通じ、名医華蛇を推薦したこともある。


姓名:潘璋(はんしょう) 字:文珪(ぶんけい)      生死年:?〜234
出身地:東郡発干県  役職:別部司馬→右将軍
所属:
能力値:武:78 知:85 統:39 政:28 魅:54

説明文:
陳寿によって、孫氏配下の勇将の一人に数えられた呉の武将。孫策の死後孫権に仕え、戦功を挙げた。江夏の太守黄祖の討伐に参加、蘇飛を生け捕りにした。劉備が孫夫人を連れて蜀へ脱出した際には、陳武と共に追走したが追い返されている。荊州攻略には大都督呂蒙のもと、韓当、周泰、蒋欽、朱然、徐盛、丁奉と共に七人の大将の一人として参加。見事関羽は撃退され、潘璋は敗走する関羽を朱然と協力して追いつめ、部下の馬忠が落馬した関羽を捕らえた。その後関羽は処刑された。劉備軍が仇討ちの為押し寄せてきた時は先鋒として迎え討ち、凌統と協力して黄忠を攻撃したが、関興と張苞に阻まれた。その後蜀が琥亭を取った直後山中で関羽の亡霊に出くわし、その亡霊に導かれやって来た関興に斬られた。だが関興に討たれたのは演義での虚構で、正史では天寿をまっとうしている。蜀の英雄関羽を殺した(正確には馬忠だが)男だから、蜀びいきの作者からすればまともな死に方はさせられなかったのだろう


姓名:韓当(かんとう) 字:義公(ぎこう)    生死年:?〜223?
出身地:遼西郡令支県  役職:別部司馬→先登校尉→都督
所属:
能力値:武:69 知:65 統:71 政:48 魅:60

説明文:
孫堅・孫策・孫権と三代にわたって仕え、三代ともに深く信頼されていた古株の将軍。部下からの信頼も厚くいつも励ましていたため、兵は皆心を一つにして戦った。会稽・呉・丹楊の三軍討伐・黄祖討伐・赤壁の戦い・宜都の戦いなど多くの戦に参加し活躍した。最後まで信頼され、223年には都督の称号を受けるが、まもなく病気で没する。


姓名:朱治(しゅち) 字:君理(くんり)    生死年:156〜224
出身地:丹楊郡  役職:呉郡太守→安国将軍
所属:
能力値:武:57 知:47 統:42 政:33 魅:48

説明文:
孫堅・孫策・孫権と三代にわたって仕えた。孫堅の死後は孫策と共に袁術の下に身を寄せるが、孫策に「袁術から離れて江東を攻めよう」と提言する。孫策の死後も、良く孫権を守り立て共に戦った。彼が孫策に提言しなかったら、呉は出来なかったかもしれないですね。演義にはあまり登場しない。


姓名:虞翻(ぐほん) 字:仲翔(ちゅうしょう)    生死年:164〜233
出身地:会稽郡余姚県  役職:功曹→騎都尉
所属:
能力値:武:44 知:77 統:30 政:81 魅:74

説明文:
元は会稽太守・王郎配下の将だったが王郎が孫策に敗れると、孫策に認められ召抱えられる。孫策死後も引き続き孫権に仕え騎都尉に任じられるが、耳の痛い諫言ばかりいうので、たびたび臣下と衝突し協調できず、地方の職に左遷されてしまう。のちに呂蒙の荊州攻略の際に同行し、功を立て中央政権に復権をはたす。しかし、その後もたびたび孫権を怒らせ最後には、また左遷され歴史から姿を消すことになります。


姓名:陳武(ちんぶ) 字:子列(しれつ)    生死年:?〜215
出身地:廬江郡松磁県  役職:別部司馬→偏将軍
所属:
能力値:武:71 知:56 統:57 政:49 魅:39

説明文:
身長七尺、顔は黄色く赤目の容貌怪異。武力抜群であった陳武は孫策に気に入られていた。暗君・劉ヨウに不満を抱き、孫策に内応。孫策が劉ヨウを攻めた時、曲阿から攻めた周喩を城門を開けて迎え入れた。この功により校尉の位を受けた。陳武は早速、わずか十数騎を率いて先鋒となり、敵陣に飛び込むと、瞬く間に敵兵の隊長五十人あまりを切り伏せ、その武力を見せつけた。赤壁の戦いでは四番手として軍船・三百艘を率いて曹操の大船団に突撃、壊滅させた。この功で偏将軍に昇格した。その後の南郡の戦いでは曹仁を攻め、見事破ったが、南郡は劉備に取られ失態を犯してしまう。曹操軍が濡須に四十万の大軍をもって攻め入った際陳武は弓隊を率い、一斉に矢を放ち曹軍を追い返した。曹操軍は再度、合肥と濡須を四十万の兵をもって攻めた。このとき陳武は長江の沿岸を警備していた。そこで敵将・ホウ徳と鉢合わせ、直後二人は激しく打ち合うが、陳武は押され、じりじりと山あいの林に追い詰められる。相手の隙をついて、取って返して剣を振りかざした。だが鎧の直垂が枯れ枝にからまり、身動きが取れないままホウ徳に斬り殺された。


姓名:張昭(ちょうしょう) 字:子布(しふ)    生死年:156〜236
出身地:彭城郡  役職:長史→撫軍中郎将→輔呉将軍
所属:
能力値:武:23 知:90 統:37 政:98 魅:80

説明文:
呉国を基盤を支えた、頑固な重臣である。若い頃から勤勉で後漢政府が機能していた時代に政府や陶謙からの推挙を受けていたが、気が進まず全て断ってしまう。そのまま仕官をしないまま江東に移住し暮らしていたが、その地で孫策の丁寧な招きに遂には観念し配下となっている。その後、孫策の下で働くがすぐに孫策が急死、後継の孫権を良く守り立て補佐した。赤壁の戦い時の会議で、曹操に降伏することを提言して以来、孫権は張紹の事をあまり信用しなくなってしまった。呉の多くの家臣達は張紹が能力的・功労的に丞相の位に相応しいと思い孫権に提案するも、彼が丞相になることはなかった。それでも、たびたび孫権の酒乱癖や狩猟遊びを厳しくいさめている。若い孫権にとって、いつも耳の痛いことを言う後見人のような立場だったのでしょう。


姓名:張紘(ちょうこう) 字:子網(しこう)    生死年:?〜?
出身地:広陵郡  役職:正議校尉→侍御史→長史
所属:
能力値:武:19 知:86 統:27 政:96 魅:62

説明文:
呉の二張の一人。孫策・孫権を陰ながら支えた有能な文官。若い頃は都へ出て勉強し、その能力は中央政府からも定評を得ていた為、帰国しても多くの有力者(大将軍・何進/太尉・朱儁/司空・荀爽など)から招かれたが、どれも断っている。戦乱が激しくなった為、戦火を避け江東に移り住むと、呉の2代目孫策に出会い、そこで初めて仕官している。孫策の配下に張昭もいたため孫策は二人を「二張」呼び高く評価し、いつも二張のうち一人は戦に同行させ一人は城を守らせた。張紘の能力が広く有名になると、誰も自分の配下にほしがり色々な策謀をめぐらしたが、孫策は彼を手放す事を拒否した。199年孫策の使者として献帝のもとへ赴くが、その先で曹操の引止めに合い、配下にされてしまう。孫策が急死した際に曹操は呉を攻めようとするが、張紘は反対した。そのため曹操は孫権を降伏させる目的で張紘を呉へ派遣するが、曹操の意に反し、そのまま孫権配下になってしまう。その後は良く若い孫権を補佐し、呉の礎を築いた。享年60歳。


姓名:周秦(しゅうたい) 字:幼平(ようへい)    生死年:?〜?
出身地:九江郡下蔡県  役職:別部司馬→奮威将軍
所属:
能力値:武:84 知:60 統:78 政:53 魅:67

説明文:
若き孫権を身をもって救った忠義の臣。孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に、蒋欽と共に出会い配下となっている。戦場ではたびたび手柄を上げ、別部司馬に任じられる。孫権は彼をとても気に入り、孫策に強く頼んで自分の配下にしてもらっている。異民族討伐時に、油断して敵に取り囲まれてしまった孫権を身をもって守り救った。孫権は無事だったが、彼は瀕死の重体で体には無数の傷があった。その後孫権は彼をとても信頼するようになり特別に優遇した。


姓名:甘寧(かんねい) 字:興覇(こうは)    生死年:?〜?
出身地:巴郡臨江県  役職:西陵太守→折衝将軍
所属:劉表→黄祖→呉
能力値:武:95 知:42 統:92 政:40 魅:85
説明文:
若い頃任侠の道を進み、ならず者を集めて頭領を務め、傍若無人に振舞っていた。そのうち書物を読み改心した。甘寧は志を抱いて劉表の所に身を寄せるが、劉表は甘寧を高く評価せず甘寧は黄祖の所に行く。しかし、黄祖も甘寧を評価しなかったので、孫権のところに身を寄せるようになる。孫権は甘寧を高く評価し呂蒙や周瑜の推挙もあり、特別な待遇をうけた。そのころから才能が開花しはじめる。度胸と機転のきく指揮官ぶりを発揮し、戦地では大胆不敵な戦略でとても活躍した。


姓名:蒋欽(しょうきん) 字:公奕(こうえき)    生死年:?〜?
出身地:九江郡下蔡県  役職:別部司馬→盪冠将軍→右将軍
所属:
能力値:武:79 知:68 統:70 政:50 魅:68

説明文:
孫策が父を失い袁術の下に身を寄せている時に周泰と共に出会い配下となっている。数々の軍功をあげ合肥の戦いでは危機にあった孫権を救っている。自制心の強い公平な性格で自分の配下を処罰した人物でも、能力が高ければ、公私混同をせずに孫権に推挙している。晩年は学問を好み、親交の深かった呂蒙と共に学問に励んだ。219年の荊州の関羽討伐時に水軍を率い活躍するがその帰りに病気で死亡する。


姓名:呂範(りょはん) 字:子衡(しこう)    生死年:?〜228
出身地:汝南郡細陽県  役職:征虜中郎将→建威将軍→大司馬
所属:
能力値:武:30 知:71 統:26 政:76 魅:74

説明文:
孫策時代に呉に仕えるようになり、各地での戦いに同行し大きく貢献している。孫権の代になっても引き続き呉に仕え、赤壁・荊州攻略などでも活躍。劉備が呉にきた際に劉備を逃がさないように進言した人物。その後も良く活躍し順調に昇進し大司馬となる命が降るが、印綬を受け取るまで生きている事ができなかった。


姓名:呂蒙(りょもう) 字:子明(しめい)    生死年:178〜219
出身地:汝南郡富陂県  役職:征虜中郎将→建威将軍→大司馬
所属:
能力値:武:85 知:90 統:92 政:72 魅:87

説明文:
子供の頃、身を寄せていた親戚・とう当が孫策に仕えていたため、そのまま呉の人間として成長していった。孫策の死後、孫権が実権を継承すると孫権は呂蒙の非凡な能力を認め、彼を将軍として引き立て兵を与えた。すると呂蒙もその期待に応えるように多くの戦功を上げ、孫権からの信頼をえるようになった。魯粛が死ぬと最高司令官の職は呂蒙に引き継がれ、呉の兵権を握るようになった。蜀呉の友好関係が崩れてくると、荊州の関羽討伐を計画(演義では陸遜が考えたと言われている)、関羽が北方に進軍している留守を狙って荊州に進行する、その際兵に戦地での略奪を禁じ、人民や捕虜も手厚く保護するように徹底した。その効果もあって関羽が戻ってきたときには荊州の人民は呉に心を開き、それを見た兵たちも呉に降伏してしまった。兵を失った関羽は逃亡中に捕らえられ処刑される。荊州平定の大功績に孫権も大いに喜んだが、呂蒙は帰国してまもなく病にかかり死去する。周瑜→魯粛→呂蒙、そして陸遜へと呉の最高司令官の座は継承される。世間における、、、もとい演義における呂蒙は事実とは大きく違っている。それはやはり絶大的は人気の関羽を殺したと言うところにあるようだが、呂蒙には気の毒なほど正史における良いエピソード部分は演義では大きくカットされ、マイナス的はエピソードが加えられている。実際の彼は学問に強く、戦略にも優れた周瑜・魯粛に引けを取らない司令官であった。忠義心にも厚く、孫権から貰った褒美は全て使わずに保管しておいて自分が死んだ後は全て返納する遺言していたらしい。


姓名:太史慈(たいしじ) 字:子義(しぎ)    生死年:166〜206
出身地:東莢郡黄県  役職:奏曹史→建昌都尉
所属:劉よう→呉
能力値:武:92 知:56 統:82 政:56 魅:78

説明文:
太史慈、字は子義。東菜郡黄県の人。身の丈七尺七寸。腕が長く弓を撃てば百発百中の名手だった。若い時は学問好きで郡の奏曹史を務めた。21歳の時、太史慈の噂を聞いた北海の孔融が太史慈の母の面倒を見た。その恩に報いるため、管亥に囲まれた孔融の救援に駆けつける。平原にいる劉備に援軍を求めたい孔融の使者を買って出るが、包囲網抜け出せず苦しんでいた。そこで弓矢と的を持って城外に出ると、連日弓の稽古をしだした。驚いた包囲軍だったが、徐々に見なれて油断した頃合に、その隙をついて一気に馬で包囲網を突破し、使者の役目を果たした。その後劉ヨウのもとに身を寄せる。そしてその後孫策が劉ヨウに攻めてきたのだった。太史慈を、孫策に当らせるべきだという意見があったが、劉ヨウは騎兵一騎を渡し偵察を任せた。劉ヨウが孫策に破れると一人残り、孫策と戦い続けたが捕虜となった。その時太史慈は「劉ヨウの残党にはまだ有能なのが残っている。六十日以内に集めて戻ってくる。」と約束して出立。裏切りを心配するものもいたが約束通りに戻ってきた。合肥の戦いの際に諸葛瑾に止められるのを聞かず張遼の陣に攻めこむが、張遼の待ち伏せに遭い数本の矢を受けてしまい、なんとか陣に戻るも矢傷が癒えず死亡。享年四十一歳。太史慈はとても親孝行だったと言う。孫策との神亭山での一騎撃ちは有名。孫策は「あの時援軍が来なかったら俺は死んでいた。」と言うくらいなので、呉軍の中ではナンバー1の実力だったと思われる。


姓名:顧雍(こよう) 字:元歎(げんたん)    生死年:168〜243
出身地:呉郡呉県  役職:郡丞→丞相
所属:
能力値:武:16 知:85 統:22 政:69 魅:75

説明文:
冷静沈着で学問に優れていた為、地方の役所が彼を推挙し呉国の中央政権へ踊り出る。県令や太守などの役職を歴任し、孫権の代になっても順調に昇進して、やがて丞相となった。顧雍はいかなる時も冷静で感情に左右されずに人の能力を判断し、能力の高いものを高い位に据えるようにした。顧雍は真面目で的確な発言をしたため、宴会などでは煙たがれ、孫権などが「顧雍がいると酒が不味くなる。」といって共に飲むのを好まなかった。


姓名:かん沢(かんたく) 字:徳潤(とくじゅん)    生死年:?〜243
出身地:会稽郡山陰県  役職:西曹掾→太子太傳
所属:
能力値:武:44 知:78 統:65 政:83 魅:72

説明文:
生まれは官の家ではなく貧しい農家だったため、学問を学びたかったが学資がなく、書物を買うことも出来なかった。考えた結果、他人の書物を写してその書物を売って生活していた。写している間に書物の内容は暗記していたので、持っている意味がなかったいう。その知識を基に学識を深め、次第に有名になり、顧雍によって孝廉に推挙された。孫権の出世と共にかん沢も昇進し、孫権が皇帝になると尚書になり、最後は太子太傳にまでなった。


姓名:諸葛謹(しょかつきん) 字:子ゆ(しゆ)    生死年:174〜241
出身地:瑯邪国陽都県  役職:長史→大将軍
所属:
能力値:武:47 知:90 統:56 政:92 魅:91

説明文:
諸葛瑾は、あの蜀の諸葛亮孔明の実兄。戦乱をさけて、弟などとともに江東に移住した際に孫権に仕えるようになった。どうしても、偉大な弟と比較されてしまい、影が薄くなってしまいがちだが、諸葛瑾も優秀な人物であったという。弟が蜀に仕えていたために孫権など、呉の武将からは疑うような目で見られていたときもあったが、彼が取った誠実な態度などを見ているうちに、孫権も諸葛瑾に絶大なる信頼を置くようになったというほどの人格者だった。


姓名:凌統(りょうとう) 字:公績(こうせき)    生死年:?〜?
出身地:呉郡余抗県  役職:別部司馬→偏将軍
所属:
能力値:武:81 知:58 統:70 政:56 魅:62

説明文:
呉群余坑県の人。凌操の子で、命知らずな性格。孫権時代からの配下。黄祖との戦いで父「凌操」が甘寧に射殺された際、必死に戦って遺体を取り返す。後に甘寧が呉に降ると、恨みを捨てきれない凌統は甘寧に斬りかかるが孫権に止められる。だが、その後も甘寧に幾度となく張り合った。ある日呂蒙の開いた宴席で剣舞を舞い甘寧を殺そうとするが、呂蒙に止めに入られ復讐は果たせなかった。濡須口の戦いで無理に張遼に攻めかかり、曹休の矢を受けて落馬。楽進に殺されそうになるが、そこに甘寧が来て楽進を射たため彼は助かった。これがきっかけで恨みは水に流した。合肥の戦いで、張遼に襲われた孫権を命懸けで助けたため偏将軍に昇進。すごく頑張った凌統だったがあまり功績は認められず、地味なまま、四十九歳で病死。


姓名:薜綜(せっそう) 字:敬文(けいぶん)    生死年:?〜243
出身地:沛郡  役職:五官中郎将→太子少傳
所属:
能力値:武:34 知:64 統:30 政:73 魅:66

説明文:
年少の頃、戦火を逃れ交州(荊州の下)に疎開していた時、孫権に見出され召抱えら
れた。その後、呉の交州平定に
貢献。演義では赤壁の戦いの際に、同盟を結ぼうとする蜀からの使者として来た諸葛
孔明に、舌戦で挑み見事に負け
る役で登場する。


姓名:陸績(りくせき) 字:公紀(こうき)    生死年:187〜219
出身地:呉郡呉県  役職:奏曹掾→偏将軍
所属:
能力値:武:22 知:67 統:30 政:53 魅:64

説明文:
盧江太守をしていた陸康の子。自分の思った事をドンドンと言ってしまう性格で、意見を曲げる事が出来なかったので、他の人と協調出来ず中央の権力から追われ、地方の太守となっている。演義では赤壁の戦いの際に、同盟を結ぼうとする蜀からの使者として来た諸葛孔明に、舌戦で挑み見事に負ける役で登場する。


姓名:張温(ちょうおん) 字:恵恕(けいじょ)    生死年:193〜?
出身地:呉郡呉県  役職:議郎→太子太傳
所属:
能力値:武:26 知:59 統:20 政:69 魅:60

説明文:孫権に才能を見出され召抱えられる。使節として蜀へと赴いた際、蜀の名士たちに才能を高く評価され、だんだんと張温は名声を上げていった。その事によってだんだん孫権は彼を嫌うようになり適当な理由をつけて彼を失脚させる。その後、歴史の表舞台から姿を消す。


姓名:徐盛(じょせい) 字:文嚮(ぶんきょう)    生死年:?〜?
出身地:瑯邪郡  役職:別部司馬→安東将軍
所属:
能力値:武:82 知:83 統:81 政:71 魅:78

説明文:
孫権に能力を認められ取り立てられる。柴桑に劉表の配下が数千の兵を引き連れて攻めてきた所を、徐盛はわずか200人の兵で破り守った。その功により昇進し、孫権も信頼をよせるようになる。その後数々の戦場にて、同軍の将達が恐れて攻めあぐねている時も、勇敢に戦いを挑み功を上げた。孫権が孫策の後を継ぎ、人材を集めた時に用いられた。周瑜の指揮の下、赤壁の戦い・南郡の戦いで勝利に貢献したが、荊州を襲撃した時惨敗した。周瑜死後、合肥の張遼を攻めたが破れ、濡須の戦いでは李典と戦い、重傷を負う。しかし曹操の後を継いだ曹丕が大軍で呉に攻めて来た時、徐盛は安東将軍として軍を指揮して迎え討つ。長江の南岸にハリボテの城壁や武器、軍旗を持たせた藁人形を大量に配置させたりし、本物の大軍のように見せかけ、曹丕軍を追い払った。このときの徐盛は知勇兼ね備えた将に成長を遂げていた。その後も大都督・陸遜に付き従い、先鋒として魏の曹休の軍を打ち破った。この一戦で魏の兵数万が投降。また多くの戦利品を奪い孫権を喜ばせたが、戦いの後間もなく病死した。孫権は徐盛の死を大いに悲しんだという。


姓名:朱桓(しゅかん) 字:休穆(きゅうぼく)    生死年:178〜239
出身地:呉郡呉県  役職:余姚県令→前将軍
所属:
能力値:武:83 知:77 統:81 政:67 魅:81

説明文:
呉の四大豪族(顧・陸・朱・張)の一人。県令として任地に赴くと、その地は疫病、飢饉に見舞われていた。そこで、有能な役人を選び、医薬品を手配し、炊き出しを幾度も行わせたので、官民とも喜んで彼の指示に従った。その後、孫権の側近として仕えたが、その技量を買われて将として抜擢され、その期待に応えて活躍を続ける。222年、魏が呉に三路の軍勢で攻め込んだとき、朱桓は濡須を守備していた。手持ちの兵は5千。曹仁率いる魏軍は何万もの軍勢。みな恐怖におののいていたが、「勝敗を決するは大将の手腕であり、兵の数ではない。魏軍は昼夜の行軍で疲れ果てている。だが我が軍は高い城壁に、南は大河、北は山岳を背にし、十分な休養を取った兵である。待受けるに適した地形の中で、遠方からやってきた者を防ぐものである。まさに百戦百勝の形勢である。」と教え諭した。城に軍旗も立てず、太鼓も鳴らさず、弱っているように見せかけて急襲し、曹仁を追い払った。この功により、朱桓は奮起将軍に任命された。武芸の達人よりも智謀の将として著名。その反面気位が高く、人の指示を拒否したり、思い通りにいかないと憤激したりする性格でもあったという。全ソウと言い合いになり、気が触れてしまったこともあったという。しかし、部下には非常に優しく、私財を投じてまで兵士たちの生活を第一に考えた慈将であった。また、記憶力も抜群で、直属の部下一万人の妻子の名前と顔を覚えていた。上層部には人気がなかったが、下からはとても慕われた名将である。


姓名:宗謙(そうけん)    生死年:?〜?
出身地:ふめい  役職:将軍
所属:
能力値:武:50 知:47 統:58 政:48 魅:38

説明文:準備中


姓名:歩しつ(ほしつ) 字:子山(しざん)    生死年:?〜247
出身地:臨淮郡淮陰県  役職:主記→驃騎将軍→丞相
所属:
能力値:武:20 知:84 統:25 政:71 魅:72

説明文:
孫権の幕僚。若い頃は、頼る人もおらず、貧しい生活を送っていた。田畑を耕し、農作物を売って生活費を稼ぎ、昼は肉体労働に精を出し、夜は書物に目を通していた。孫権が将軍になると、召し出された。呉に降っていた呉巨(元・劉表配下)が異心を抱いたと見るや否や、会見を利用して謀殺し、威勢を振るわせた。赤壁の戦いでは呉と同盟を結ぶため、来国していた孔明に論戦を挑んだが、論破された。後に魏と濡須で戦ったとき、和睦の使者として魏の陣営に赴き、同盟を成立させた。また、荊州攻略戦では、関羽と曹仁の軍勢の動きを的確に読み、呉に勝利をもたらした。229年、孫権が帝位に就くと歩しつはヒョウ騎将軍に任命され、その後、陸遜に代わって都督となった。246年、歩しつは陸遜の後を継いで丞相となったが、普段と変わらず、学者先生として過ごした。性格は太っ腹で喜怒の感情を態度に出さない人物であった。また、日の目をみる事のない人材を推薦し、困難な立場にある者たちを救うべく何十通もの手紙を孫権に出し、彼のおかげで助かった者も少なくなかったという。


姓名:丁奉(ていほう) 字:承淵(しょうえん)    生死年:?〜271
出身地:廬江郡安豊県  役職:偏将軍→大将軍
所属:
能力値:武:78 知:62 統:68 政:75 魅:71

説明文:
孫策死後、国を継いだ孫権が東呉の君主になると、広く人材を求めた。その際丁奉も、武官の一人として召し抱えられた。同期の陸遜や徐盛にも官位を抜かれた晩成型で、初めは甘寧や陸遜などの一部将として戦った。劉備とともに荊州へ逃亡を図った孫夫人を追いかけたが、孫夫人に一喝され追い返されるなど情けない役どころが多い。しかし徐々に功を重ね、偏将軍に登った。孫権が死ぬと、司馬兄弟はこれを機に十万の大軍を用いて呉を攻めた。丁奉はわずか三千の兵を率い、部下に鎧兜を脱がせ、真冬の長江を渡り、剣一本で敵陣を襲撃。敵武将二人をあっという間に斬り伏せ、呉を大勝利に導いた。国内では、丞相となった孫リン(孫チン)が専横を極め、呉皇帝・孫休をないがしろにしていたが、丁奉は酒宴の席で孫リンを捕え、謀反のかどで打首にし、孫リン一族も滅ぼした。この功により丁奉は武官の最高位・大将軍にまで出世した。丁奉は呉の建衡三年(271年)、七十年にわたる戦いの日々を終わり、死亡した。まさに呉の盛衰を見届けた一生であった。


姓名:馬忠(ばちゅう)    生死年:?〜?
出身地:不明  役職:司馬
所属:
能力値:武:58 知:51 統:54 政:44 魅:47

説明文:
呉の藩璋の副官(司馬)。今日では神と化した関羽親子を捕縛・殺害したことが、彼の名を有名にしている。しかし、史実ではともかく、演義に於いて関羽を殺してしまっては、ろくな書かれ方をしないのは当然といえば当然であろう。上司の藩璋は、父兄の仇敵を狙う実子関興と出くわして直ちに斬られる(史実では、この一件はない=藩璋は234年まで生きてます)。その藩璋の仇を討たんとたった馬忠だったが張包と関興のタッグワークにやられ、挙げ句の果てには、関羽の復讐に燃える劉備に恐れをなした裏切り者、フ(博をにんべんに)士仁、ビ芳に、再就職の手みやげ代わりに殺されてしまう始末(この後、二人も結局許されず殺される)。馬忠としては、軍人として当たりまえの仕事をしただけなのだが、麦城攻略に関わった呉将は、「総責任者」呂蒙から「実行犯」馬忠に至るまで、後世の人々によって追加的に断罪されるのである。合掌。


姓名:諸葛恪(しょかつかく) 字:元遜(げんそん)    生死年:203〜253
出身地:不明  役職:騎都尉→大将軍
所属:
能力値:武:50 知:91 統:68 政:83 魅:76

説明文:
諸葛謹の長男で、諸葛亮の甥。若いころから才能に優れ機知に富み、陸遜死後は大将軍として魏の侵攻を防ぐ。孫権死後後事を託され、孫亮を補佐する。しかし魏への攻撃が失敗に終わり、人が変わったように勝手に政治をする。呉帝孫亮、孫峻にうらまれ、最後は酒宴の席で、だまし討ちに合い死んだ。



以上

●こちらの三国志事典の内容について
 三国志と言う物も内容柄、正史や演義などの色々な解釈がありますので、編集人としても少々悩んで編集しておりおります

 内容に関して異なる意見のある方は、受けつけておりますでご連絡頂けますと幸いです


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