三国志ブランド「赤兎馬」がおくる三国志Tシャツ、三国志グッツの専門店「三国志ショップ赤兎馬」


姓名:袁紹(えんしょう) 字:本初(ほんしょ)   生死年:?〜202
出身地:汝南郡汝陽県  役職:侍御史→司隷校尉→冀州牧
所属:君主

説明文:
三国志前半の主人公である曹操孟徳の最大のライバルと言えばこの人。四代に渡って有名な役職に就いていた名門袁家の御曹司。しかし彼はその名に恥じない威風堂々とした好人物だったと言う。宦官を誅殺したり反董卓連合の盟主になったり、常に先頭に立って物事を進めていた。群雄となってからも激戦区だった河北を持ち前の統率力と彼に従った優秀な文官武官と共に統一。一大勢力を築き上げた。
いくら曹操や劉備よりスタートラインが良い位置にあったからと言ってここまでできたのは袁紹に長としての才があってのことであろう。しかし、末子の病気で好機を逃したり、郭嘉に「曹操よりも十劣る所がある」と言われたり、有能な部下の意見もろくに聞かず曹操と官渡で対峙して惨敗してしまったりと後半は散々であった。その官渡での敗北も部下の裏切りからと言うのだから目も当てられない。成功が失敗の元となってしまった悲運の群雄である。


姓名:袁譚(えんたん) 字:顕思(けんし)   生死年:?〜205
出身地:汝南郡汝陽県  役職:青州刺史
所属:袁紹→曹操

説明文:
袁紹の長男で、青州の太守を務めた。強情で好戦的な性格で父・袁紹に嫌われて跡目を弟の袁尚に奪われてしまう。父の死を青州で知った袁譚は、袁紹の葬儀でも、参謀の辛評の進言で軍を城外に留め、袁尚の様子を探った。曹操が侵攻している間は、三兄弟で防戦したが、曹操が軍を引くと兄弟喧嘩を起こし、収拾がつかない泥沼にはまってしまう。結局、この骨肉の争いは袁譚は、袁尚・袁煕に敗れ、郭図の助言で曹操に降伏する。しかし、この降伏はあくまで袁尚を葬る為の便宜的なもので、袁尚敗走後、発起。曹操と対立する。袁譚の目論みを見破っていた曹操は、袁譚の軍勢を撃破した。曹操に降伏を願ったが、許されず、最後の決戦で曹操配下・曹洪に討たれた。河北に一大勢力を築いていた袁一族であったが、兄弟一致団結して国を守るべき時期に内紛を起こしては救いようがなかった。袁紹が長男を後継ぎにしなかった事により、袁一族滅亡の道を辿ることになってしまった。


姓名:袁尚(えんしょう) 字:顕甫(けんほ)   生死年:?〜207
出身地:汝南郡汝陽県  役職:不明
所属:袁紹→君主

説明文:
袁紹の三男。整った容貌の持ち主でそこそこの才能も持っていたため、袁紹の寵愛を受ける。袁紹死後、二人の兄を抜いて後継者に抜擢される。しかし、所詮は凡庸な二代目で、曹操という強敵を迎えながら兄弟喧嘩や相続争いに振り回されて河北の地盤を失う。曹操との戦いで、キ州城を失った袁尚は次男・袁煕を頼って幽州に落ち延びたが、ここも曹操の侵略のところとなり、袁煕と共に公孫康のもとへ逃れた。袁尚としては、公孫康のもとで、兵を休ませ、折あらば公孫康を倒して遼東の軍勢を率いて再度、曹操と戦い、河北を奪い返すつもりであったが、袁尚の企みを見破った公孫康により、次男・袁煕と共に首を討たれた。


姓名:袁煕(えんき) 字:顕奕(けんえき)   生死年:?〜207
出身地:汝南郡汝陽県  役職:幽州刺史
所属:袁紹

説明文:
袁紹の次男で、袁尚のすぐ上の兄。父の袁紹には軟弱な人間だと誤解されていたが、本来は軟弱な人物ではなかったといわれている。証拠として、官渡の戦いで、袁紹が曹操に敗れた時、六万の軍勢を率いて応援に駆けつけたり、倉亭の一戦では、十面埋伏の計にかかり、全滅の危機に陥った父・袁紹を従兄弟の高幹とともに矢傷を負いながらも助け出したりしている。父の死後、袁譚・袁尚の相続争いを傍観していたが、曹操が冀州攻撃を開始した時、袁譚・袁尚を説得し、三兄弟で防戦に努めたが、敗れ、袁尚とともに幽州へ退却した。冀州城陥落の報を幽州で聞いたが、この時冀州に残してきた妻・甄姫を曹丕に奪われてしまう。その後、曹操に幽州を攻められ、袁尚と一緒に公孫康のもとへ逃れた。公孫康を殺害し、再起を図ろうと袁尚と画策したが見破られ、袁尚とともに首を討たれた。妻を敵に奪われるあたり不覚人といえる。


姓名:田豊(でんほう) 字:元皓(げんこう)   生死年:?〜200
出身地:鋸鹿郡  役職:侍御史→別駕
所属:後漢→袁紹

説明文:
袁紹のもとで、政治・戦闘両面で献策していたが、次第に袁紹との間に隔たりができてきたようだ。曹操が劉備を討つために徐州へ進撃した際、この隙を突いて許昌へ攻め入るべきだと進言したが、息子の病気を理由に袁紹は好機を逃してしまう。官渡の戦いが始まると、袁紹は即、大軍を進めて決戦を挑もうとした。これに対して田豊は、曹操方の兵糧が底尽きかけていることを察知し、持久戦を主張したが耳を貸さず、士気を挫くと投獄されてしまう。かくして戦は大敗を喫し、幕僚の郭図は『田豊は牢の中で、それ見たことかと嘲笑っていることでしょう。』と讒言、袁紹は田豊を処刑した。獄中からも何度も諌めたが、聞き入れられなかった。そこまでの忠義と智謀を持ち合わせた彼を、袁紹が重用しなかったのは惜しまれることだ。


姓名:紀霊(きれい) 字:不明   生死年:?〜?
出身地:不明  役職:将軍
所属:袁術

説明文:
袁術の配下の豪の者。重さ50斤の三尖刀の使い手。劉備討伐に行ったものの呂布に仲裁されてしまいった。
その後、紀霊は袁術が袁紹を頼ってキ州へと移動している最中に袁術一行は劉備達の待ち伏せにあい、ここで張飛に討ち取られその生涯を閉じた。
しかし、そんな彼にも「関羽と一騎打」と言う華やかなエピソードがある。荀ケの駆虎呑狼の計によって争うこととなった劉備軍と袁術軍。両軍が激突しようとしたと
き、袁術軍の先頭を切ってやってきたのが紀霊だった。劉備軍の関羽はこの紀霊の前に立ちはだかり一騎打ちを挑む。両者共30合あまり打ち合ったが勝負は決まらなっ
かたと言う。可哀想な生涯と最期だったためにせめて、「生涯袁術に付き従った一途で忠義の名将だった」と思いたい。


姓名:高幹(こうかん) 字:元才(げんさい)   生死年:?〜206
出身地:陳留郡圉県  役職:井州牧→井州刺史
所属:袁紹→曹操

説明文:
袁紹の甥でへい州太守。高幹は官渡の戦いで伯父である袁紹が曹操に大敗した時、五
万の兵を率いて救援に駆けつけた。倉亭の合戦で重症を負ったが、勇敢に戦い、屈す
る色を見せなかった。曹操軍がキ州城外に押し寄せたときも応戦に応じた。しかし、
曹軍の猛攻は収まるところではなくキ州はおろか幽州も陥落。高幹は、壷関の城を死
守し、孤立しながらも奮戦した。曹操は官渡で降伏した袁紹部下・呂翔に策を授け
た。呂翔は高幹の元へ行き、曹軍から逃げてきたと偽り、同時に夜襲を提案。これに
乗せられた高幹は曹軍陣地に夜襲をかけたが惨敗し、逃亡を図ったが、部下に殺され
た。


姓名:郭図(かくと) 字:公則(こうそく)   生死年:?〜205
出身地:穎川郡  役職:計吏
所属:袁紹

説明文:
袁紹に仕え、参謀役として活躍した。官渡の戦いでは、審配らとともに早期決戦を進言した。しかし、自分の立てた作戦の失敗を高覧、張コウらの責任にしたため、多くの勇将を曹操軍に走らせた。その責任は大きいといえるだろう。袁紹死亡後、後継者争いが起こった際、長男・袁譚を補佐したが、袁譚が袁尚に敗れた時、曹操と共に袁尚を滅ぼす策を立て、一度、袁譚らと共に曹操に帰順する。そして袁尚が滅ぶと、これを機に袁譚を自立させ再度、曹操と対決。最後には南皮で曹操に破れ、斬首された。


姓名:許攸(きょゆう) 字:子遠(しえん)   生死年:?〜?
出身地:南陽郡  役職:幕僚
所属:後漢→袁紹→魏

説明文:
袁紹の幕僚。若い頃洛陽で過ごしたので、西園八校尉だった袁紹や曹操とも親しかった。
官渡の戦いにおいて間者を放ち曹軍の兵糧がほとんど底をついている事をつきとめ、許都を急襲し曹軍を挟撃するように袁紹に献策したが、曹操の旧友であったためスパイではないかと袁紹に疑われる。これに憤慨した許攸は曹軍に投降し、袁紹軍の兵糧のほとんど全てが中継地点の烏巣に集結しているという爆弾情報を曹操に与える。九分九厘敗色濃厚だった曹操は、官渡の守備を曹仁らに任せて、自ら決死の烏巣襲撃隊を編成し、五千の軽騎馬隊に袁紹の旗印を持たせ烏巣を襲撃。これが官渡の戦いの勝敗を決した。
中華戦史に輝く官渡の大戦を自分の献策で勝利に導いた許攸は、次第に曹操の幕僚の中でも大きな態度をとるようになり、曹操ならびに旧臣たちに嫌悪されるようになる。あるとき曹操の行列と共に城門をくぐった許攸は、
「この人(曹操)は、自分を手にいれなければ、この城門をくぐれなかっただろう」(つまり官渡で死んでただろう、という意)と側近に漏らし、それが曹操の耳に入り、逮捕され首を刎ねられた。


姓名:沮授(そじゅ)   生死年:?〜200
出身地:広平郡  役職:別駕→騎都尉→監軍・奮威将軍
所属:韓馥→袁紹

説明文:
袁紹の幕僚として数々の意見を進言し、袁紹を河北の一大勢力に育てた。献帝が長安を脱出した際「天子を擁して天下に号令すべきです」と進言したが、優柔不断な袁紹はその意見を却下した。沮授は袁紹に天下を取らせるよう努力したが、袁紹はそれに応えるだけの器量がなかった。官渡の戦いでは持久戦を主張し、短期決戦は避けるべきだと何度も袁紹に進言したが、取り入れられることなく、かえって謹慎を命じられた。官渡の戦いは袁紹軍の大敗に終わり、沮授は曹操軍に捕らわれたが、曹操には下らず、逃亡を図って殺された。最後まで袁紹に対しての忠節を守り抜いた。


姓名:逢紀(ほうき)  字:元図(げんと) 生死年:?〜202
出身地:不明  役職:不明
所属:袁紹

説明文:
袁紹配下の幕僚。 袁紹に冀州を奪う策を進言し、河北支配に一役かった。官渡の戦いでは田豊・沮授の『長期決戦』に反対し、審配とともに『早期決戦』を進言した。袁紹は『早期決戦』を選択し、曹操と対決したが、惨敗。敗戦後、不仲であった田豊を陥れるため「殿の敗戦を田豊はそれみたことかと嘲笑していることでしょう」と讒言し、田豊を獄中死させる。袁紹死後は、袁譚を後継者として支持した。袁家断絶を目論む曹操が袁譚軍に攻め込んだ際、「不仲といえど袁尚殿は実の兄を見捨てることはないでしょう。私が援軍要求の使者になりましょう」と進言、渋る袁譚に「もし失敗したら焼くなり煮るなり好きにしてください。援軍要求には自信があります」と自信を見せた。意気を買った袁譚は逢紀を援軍要求に向かわせるが、袁尚は援軍要求を一蹴。一兵も連れて戻れなかった逢紀に袁譚は激怒。逢紀は命乞いをしたが、打首にされ、陣中に晒されたのであった。


姓名:辛評(しんひょう)  字:仲治(ちゅうじ) 生死年:?〜204
出身地:穎川郡  役職:不明
所属:袁紹

説明文:
辛ピの兄。韓フクの配下であったが、袁紹が冀州を占領すると袁紹に帰順した。官渡の戦いでは、郭図らと早期決戦を主張した。官渡の大敗で袁紹が病死した後、袁譚を助けて袁尚と戦う。建安十年(205年)曹操が袁譚を攻めたとき降伏の使者に立った。降伏は許されなかったが、曹操に配下になるように勧められた。しかし辛評は「二君に仕えるつもりはない」と断固拒否し、陣営に帰ったが、袁譚は辛評が曹操に配下になるよう勧められたと密偵から聞いていたため、二心を疑う。二心を疑われた辛評は憤激のあまり卒倒死した。忠義を守り通したが、主君に疑われた哀れな人物であろう。


姓名:審配(しんぱい)  字:正南(せいなん) 生死年:?〜204
出身地:魏郡  役職:治中別駕
所属:袁紹

説明文:
袁紹の幕僚。軍監として袁紹に仕えていた。しかし、深謀遠慮に欠けるところが目立
ち、独断専行型の人物であった。官渡の戦いでは、早期決戦を唱え、軍の総指揮を
とった。しかし、審配の戦術は曹軍参謀の劉ヨウに全て見破られていたため、ことご
とく打ち破られ、大敗に終わった。袁紹没後は、袁尚の参謀として曹軍と何度か対決
したが、捕らわれ、降伏を拒否して斬首された。


姓名:淳于瓊(じゅんうけい)  字:仲簡(ちゅうかん) 生死年:?〜200
出身地:穎川郡  役職:左軍校尉→都督
所属:後漢→袁紹

説明文:
後漢の霊帝が設立した西園八校尉に中軍校尉の袁紹、典軍校尉の曹操と並んで佐軍校尉となったが、後漢末の混乱で西園軍が自然消滅してしまう。
その後袁紹に仕え配下の武将となる。曹操と袁紹の天下分け目である官渡の戦いでは袁紹軍は曹操軍より兵力・物量ともに
圧倒的に優位であったが、序盤戦の戦いで顔良・文醜という猛将を失なった。さらに淳于瓊が1万の軍を率いて烏巣の軍糧貯蔵地を守備していたが、曹操軍の奇襲にあっ
て兵糧をすべて焼き払われてしまった。袁紹軍の最大の食料庫であったのだ。このことが袁紹軍の敗北の原因となり、曹操軍に殺された。


姓名:麹義(きくぎ)  生死年:?〜193?
出身地:不明  役職:不明
所属:袁紹

説明文:
涼州に長期間滞在していたこともあり、騎馬戦に長けていたという。界橋にて公孫さん軍と交戦した時は、敵将 厳綱を討ち取り公孫軍の旗を折るなどして活躍したが、その直後に当時公孫さんの軍にいた趙雲に突き殺された。正史での麹義は、界橋の戦いを生き残ったものの公孫さん軍を撃破した功績を必要以上に誇ったため、それを疎んじた袁紹によって殺された、とある。
曹操との戦いあたりまで生きていれば、その騎馬戦に対する技量を生かしてもう少し目立った活躍をしていた可能性も考えられ、早期に散ったのが惜しまれる武将だと言える。


姓名:顔良(がんりょう)  生死年:?〜200
出身地:不明  役職:不明
所属:袁紹

説明文:
袁紹配下の豪傑。郭図・淳于瓊とともに劉延を攻撃する。荀攸の進言で曹操は白馬へ倍の早さで進軍した。顔良は慌てて迎撃したが張遼と曹操軍の客将、関羽に包囲され関羽に斬られた。演義では白馬の戦いで曹操配下の宋憲と魏続を立て続けに打ち、徐晃もかなわぬほどの豪傑だったが曹操軍にいた関羽に殺された。


姓名:文醜(ぶんしゅう)  生死年:?〜200
出身地:不明  役職:不明
所属:袁紹

説明文:
袁紹配下の豪傑。袁紹が公孫サンと戦った時、敗走する公孫サンを追いつめる。しかし助けに入った趙雲と一騎打ちで敗れそうになり、公孫サンをとり逃がす。顔良が曹操軍の客将、関羽に討ち取られたとき、関羽と戦うが関羽に斬られてしまった。


姓名:袁術(えんじゅつ) 字:公路(こうろ) 生死年:?〜199
出身地:汝南郡汝陽県  役職:郎中→後将軍/皇帝(ただしあくまで自称、伝国の玉璽を孫策からもらったため)

所属:後漢→独立

説明文:
袁紹の従弟。反董卓連合軍の際に、先鋒の孫堅に兵糧を渋りこれが原因で孫堅は敗走している。またその後、孫堅が死に、さらに孫堅の息子の孫策を飼い殺しにした。そして、孫策に伝国の玉璽と交換に3000の兵を貸し与えた。が、その後は衰退の道をたどる事となる。僅か3000の兵しか持っていなかった孫策が一気に大きくなり一つの勢力として独立。さらに、呂布を手懐けるために呂布の娘と袁術の息子と縁談を申し出ていたが、呂布が拒否。これによって袁術は呂布を討とうとするが返り討ちに遭い危うく討ち取られるところまで。そして、泣く泣く犬猿の仲だった袁術と組む事に・・・しかし袁紹の曹操討伐戦の時袁術との合同作戦のための北上中に大量の血を吐いて死亡した。(ちなみに袁家の人間は血を吐いて死ぬ人が多かったそうな・・・)


姓名:袁胤(えんいん) 字:公路(こうろ) 生死年:?〜199
出身地:不明  役職:丹楊太守
所属:後漢→孫策

説明文:袁術の従弟。一時は周尚(周瑜の叔父)の代わりに丹楊の太守に任ぜられていた。しかし、袁術から独立した孫策の配下である徐コン(王毘)に攻められ、太守の座を追われてしまった。やがて袁術が曹操と劉備に敗れて死ぬと、袁胤は一族と女婿である黄猗らと共に袁術の遺体を入れた棺を持って南に逃れ、皖城に勢力を築いていた劉勲を頼った。しかし、その皖城も孫策に攻め落とされ、袁胤と一族、工芸者、楽隊約三万人は捕虜となった。その後は処刑されたとも、下っ端として人生を送ったともいわれるが、何処にも袁胤の晩年の記述は無い。袁術の従弟にしては、一族を守ろうとする結構良い人物であったと予想出来る。


姓名:雷薄(らいはく) 生死年:?〜?
出身地:不明  役職:郎中→後将軍
所属:袁術

説明文:
袁術の配下武将。劉備や呂布との戦いに参加し、功績を上げた。後に袁術が玉璽を手に入れ、皇帝の位に就こうとした時、それを支持した。しかし、帝位に就いた袁術は民のことを省みず、配下の不平不満をよそに、自らの欲望を満たすべく、贅沢三昧する事に専念するばかり。袁術の配下武将は次々と見限っていく中、雷薄も同僚の陳蘭と共に袁術に愛想を尽かして、崇山にこもり、山賊と暮らす。後に袁術は帝の命を受けた、曹・劉・呂・孫の四軍に攻められ、袁術の国家(成)は没落。雷薄らは袁術に頼られるが、援助するどころか、袁術の財宝に目がくらみ、袁術一団を山賊とともに襲撃、財宝や兵糧を奪い取った。その後、雷薄らは、山賊として一生を遂げたという。


姓名:貂蝉(ちょうせん) 字:?   生死年:?〜?
出身地:不明  役職:楽女
所属:王允→董卓→呂布

説明文:
演義にのみ登場する人物で、王允の養女として描かれている。正史には『呂布は董卓の侍女の一人と内通しており、常に発覚を怖れていた』とあり、その侍女にあたるのではないかともいわれている。名については“貂”と“蝉”はどちらも冠の飾りに使われる“テンの尾”と“蝉の羽”を表していて、美しいものを象徴する言葉だが、同時に実名の残らない者に後からつけられたことも憶測できる。董卓の暴政に嘆く王允が、自らの娘を犠牲にして謀った『連関の計』。呂布の妻にと約束しておいて、董卓に献上してしまう。彼女の演技力は巧妙で鳳儀亭での逢瀬を仕組んで、呂布を想う素振りを見せては、董卓に泣きつく。花仙のような美貌と涙で二人の野獣を弄び、ついには嫉妬に狂った呂布に董卓を殺させてしまった。『吉川英治三国志』では、使命を果たしたと自刃するが、『演義』では、曹操に攻略されるまで呂布の愛妻として仕えている。他に曹操の側室の一人とも、関羽の妻になったとも伝えられ、未だに謎で覆われている。楊貴妃などとともに、中国四大美女の一人に数えられている。


姓名:劉表(りゅうひょう) 字:景升(けいしょう)   生死年:?〜208
出身地:山陽郡高平県  役職:北軍中候→荊州剌史
所属:後漢

説明文:
大将軍の何進によってとりたてられ、霊帝が崩御すると、荊州刺史に任じられた。若い頃から儒者として知られ、「八友」や「八交」のひとりに数えられて名士の誉れが高かったが、実際には優柔不断で、猜疑心が強かった。密かに通じていた河北の袁紹に官渡の戦いでは援軍を送ると約束しておきながら、兵を動かさなかった。韓嵩らが曹操に降るべきだと進言した際も、決断し切れなかったばかりか、彼らが曹操に寝返ったのではないかと疑ったりさえした。劉備が頼ってくると厚遇したが、とても彼を使いこなせる器ではなかったのだ。また、末子の劉{jを溺愛し、長男の劉{gを追い出して江夏太守にしたが、後を継いだ劉{jは劉表の死後、すぐに曹操に降服してしまう。劉表はその直前に病死している。乱世に中立を保とうとしたように、時流を読む能力に欠け、激動の時代を生きる力は無かった。


姓名:劉き(りゅうき) 生死年:?〜209?
出身地:山陽郡高平県  役職:江夏太守→荊州刺史
所属:劉表

説明文:
荊州太守・劉表の長男。次男・劉ソウとは異母兄弟で劉表の先妻・陳夫人の子供。息子の劉ソウに後を継がせたい現夫人の蔡夫人や蔡夫人の弟(兄という説もある)・蔡ボウにうとまれ、殺されそうになる。孔明から春秋時代の晋の献公の二人の子供のたとえ話を聞き、自ら身を引いて江夏の太守に転じた。曹操の荊州攻略に際して劉備と同盟を結んだが、特にめざましい働きはなかった。赤壁の戦いの後、劉備の後見を得て荊州刺史になったが、持病が悪化し、間もなく病死した。温厚な二代目タイプで乱世の世をたくましく行き抜く力がなかった。


姓名:劉そう(りゅうそう) 生死年:?〜?
出身地:山陽郡高平県  役職:君主→青州刺史→諫議大夫
所属:劉表→君主→魏

説明文:
荊州太守・劉表とその妻・蔡夫人との間に生まれた次男。長男・劉埼とは異母兄弟。劉ソウは母親の蔡夫人と伯父の蔡瑁の画策で劉表死後、後を継ぎ、荊州太守となる。しかし、曹操が荊州攻略に踏み出すと、蔡瑁、その他の部下の曹操降伏論に従い、曹操に拠点・上庸城をあけ渡す。曹操は上庸が無傷で手に入った事を大喜びしたが、劉ソウは後の災いになると考え、劉ソウを幽州へ追いやる。しかし、念には念をと部下に暗殺を命令。幽州へ向かう劉ソウ一団を襲撃させた。逃げ遅れた劉ソウは蔡夫人ともども曹操軍に暗殺された。乱世に飛躍することなく、わずか13歳でその生涯を閉じた。


姓名:かい良(かいりょう) 字:子柔(しじゅう) 生死年:?〜?
出身地:襄陽郡中廬県  役職:不明
所属:劉表

説明文:
荊州の豪族。カイ越の兄で、兄弟ともども秦から漢にかけての時代に活躍したカイ通の子孫と言われた。弟とともに何進の属官として仕え、劉表とも親しかった。頭脳明晰、公正無比の人物。後に弟と共に何進を見限り、故郷・荊州に帰っていたが、劉表荊州入りに際して、弟と共に劉表に仕えた。孫堅が荊州に侵攻してきたとき、孫堅の将星が尽きかけている事を知り、袁紹に援軍を求めての持久戦を示唆した。その後、武将の呂公に待ち伏せの計を授けてケン山で孫堅を射殺させるなど、良策を立てた。孫堅死後、江東を攻め取る絶好の機会だと進言したが、取り入れられないとみると、荊州を仁愛と恩徳で掌握すべしと進言した。劉表死後、曹操への降伏を反対したが、劉ソウが降伏を決めると、心労のあまり病死した。


姓名:蔡瑁(さいぼう) 生死年:?〜?
出身地:襄陽郡  役職:不明
所属:劉表

説明文:
荊州の豪族。姉は劉表の妻。劉表が荊州の刺史になった時招かれる。姉の子劉{jを後継者にするため、劉表に長男の劉埼を会わせようとしなかった。演義では孫堅が襄陽に攻めてきた時、襄陽城から打って出るが敗れて戻ってくる。カイ良は蔡瑁を処刑するよう進言したが劉表が蔡瑁の姉を娶っていたので処刑できなかった。のちに劉表が劉備を信用するようになると劉備暗殺を企てたが伊籍に阻止される。劉表の死後、遺書を書き換え劉{jを後継ぎにした。劉備が住民をつれ襄陽城までくると矢を射掛けて入城を拒否。曹操に降伏し水軍大都督に任命され呉の水軍と戦うが敗れ水軍を強化。しかし周瑜を味方につけるために送った説客が周瑜の偽手紙を持って帰り、蔡瑁、張允が呉に内通してるとされ曹操に処刑される。


姓名:張允(ちょういん) 生死年:?〜?
出身地:不明  役職:不明
所属:劉表

説明文:
劉表の配下で、劉表の甥。蔡瑁と同じく劉表の腹心であり、水軍の将。荊州に劉備がいた時は他の重臣と共に「劉備は危険な男です」と何度も劉表に諌言したが、取り入れられることはなかった。劉表の死期が近づくと、次男の劉ソウを後継者に据えるべく、蔡瑁らと画策した。劉表死後、新君主の劉ソウに曹操に降るよう進言し、曹操に降伏した。曹操に降伏後、蔡瑁は水軍・都督、張允は水軍・副都督を任され、指揮するが、呉の名将・周喩の偽書の策で、蔡瑁とともに裏切りの疑惑をかけられ、無実だと必死に助命を願ったが、叶わず、処刑された。その後の水軍は于禁・毛カイが引き継いだが、両者とも水軍に関してはまったくの素人であったという。


姓名:蘇飛(そひ) 生死年:?〜?
出身地:不明  役職:都督
所属:劉表→呉

説明文:
劉表の配下・黄祖のもとで都督を務めていた。黄祖の配下・甘寧の力量を認め、黄祖に甘寧を重用するように何度も進言をしていたが、「忠義を知らぬ海賊を重用できるものか」と却下されつづけた。甘寧を飛躍させたい蘇飛は、甘寧に下野し、呉に行くように説得し、甘寧を呉に向かわせた。その後、呉軍が攻め入り、黄祖は討たれ、蘇飛も捕らわれ、首を討たれそうになったが、甘寧が「蘇飛は私の恩人です。私がこうしていられるのも彼のおかげ、命は助けてください」と必死に懇願したため、命は助けられ、呉に仕えた。その後の蘇飛がどう活躍したかは不明である。


姓名:韓玄(かんげん) 生死年:?〜?
出身地:不明  役職:長沙太守
所属:魏→蜀

説明文:
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、劉度、趙範、金旋らと共に謀反を起こし、国を四分割し、長沙の太守となる。配下に恵まれ、後の五虎将の黄忠、猛将・魏延などを配下としていた。韓玄は自分の栄華のため、住民に重税をかけたり、領地で美女を見つけては無理矢理、城に連れていき、自分のなぐさみ物とするなど、横暴な性格であった。劉備が荊州平定に乗り出した際、城を渡すまいと劉備軍を攻撃し、先鋒に勇将・黄忠を出した。劉備軍・関羽と黄忠は一騎打ちをするが、黄忠の馬が足を折り、黄忠は落馬する。しかし、関羽の男気に黄忠は助けられる。韓玄は黄忠に「薙刀で勝負しおって、愚か者め。明日は得意な弓で関羽を射殺せ」と命令する。次の日、黄忠は矢を放つそぶりを見せ、関羽に助けられた義理を返す。これを韓玄は「劉備軍と図って、主君を売る気であろう」と怒り、黄忠に死罪を申しわたす。韓玄に尽くした功労者・黄忠を死罪にしようとした韓玄に憤りを感じた魏延は民や兵士を説得し、反乱を起こした。それを知った韓玄は逃げようとしたが、魏延に追いつかれ、殺された。仁政を省みず、自分の栄華のために民を苦しめた為に反乱を起こされた愚かな人物であろう。


姓名:金旋(きんせん) 字:元機(げんき) 生死年:?〜?
出身地:京兆郡  役職:黄門郎→議郎→中郎将・武陵太守
所属:後漢

説明文:
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、趙範、趙範、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、武陵の太守となる。強気で野心に満ちた性格であったという。劉備の命を受けた張飛が城を攻めようと数里に近づいた。金旋は「一気に滅ぼしてやる」と意気揚々であったが、従事のキョウ志が「すでに零陵、桂陽は劉備の手に落ちました。劉備は仁政を心がけ、民は大喜びしています。ここは大人しく降伏し、民を安んじては」と進言する。しかし金旋はキョウ志の進言を無視し、出陣する。劉備軍と戦った金旋であったが、鬼神の如く攻め来る張飛に恐怖を抱き、城に逃げ帰る。しかし城門は閉ざされたまま。金旋は「わしが帰ったぞ。門を開けんか」と怒鳴り散らした。すると城楼にキョウ志が現れ「戦わずにおれば、兵は死なずにすんだ。貴方の首を持って劉備軍に降伏する」と一喝し、矢を放った。放たれた矢は金旋の首を貫き、金旋は絶命した。進言を無視し、張飛に攻めていったのが運の尽きであった。


姓名:劉度(りゅうど) 生死年:?〜?
出身地:不明  役職:零陵太守
所属:後漢

説明文:
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、趙範、金旋、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、零陵の太守となる。劉備の荊州平定戦の一番初めの敵対勢力。劉度は気が弱い性格で、謀反を起こしたのが不思議なくらいであった。劉備軍が近くまで攻め入っているのを知った劉度は「降伏しよう。劉備には万夫不当の張飛や関羽、それに曹軍百万を一騎で駆け抜けたという趙雲。おまけに天才軍師の孔明までいる。勝ち目など万に一もない」と迷わず降伏を唱えたが、息子の劉賢に「何のために人材を集めているのです。このような時の為にでしょう。こちらには刑道栄がいるではありませんか。劉備軍などすぐに蹴散らすでしょう」と諌められ、劉賢と刑道栄に出陣を命じる。2人が出陣したあとも劉備軍に恐れおののき「どうあっても勝てるとは思えぬ…」と側近に漏らしていたという。その後、刑道栄が策にかかり、斬首され、劉賢も捕らわれたと聞くと迷わず零陵城の門を開け、劉備軍を迎え入れた。斬首されるものと思い込んでいた劉度であったが、劉備の温情で零陵の太守として現職に留まった。


姓名:趙範(ちょうはん) 生死年:?〜?
出身地:常山郡  役職:桂陽太守
所属:魏→蜀

説明文:
初め、荊州太守・劉表の部下であったが、劉表死後、劉度、金旋、韓玄らと共に謀反を起こし、国を四分割し、桂陽の太守となる。劉度が降伏したのを聞くと「次はわしだ」と恐れ、桂陽に進攻してきたのが趙雲だと聞くや否や、すぐに城門を開き、降伏
した。趙雲と今後について話をしている時、趙範は「苗字が趙とは、何かの縁。義兄弟になりませんか」と持ちかけた。趙雲も喜んで承諾した。これで終わりにしておけばよかったのだが、趙範は一人の女性に酒を注がせた。その女性は美しく、趙雲が「こ
のような美しい女性はみたことない。あなたのご夫人ですか」と聞いた。趙範は「いやいや、兄嫁です。兄は早くに亡くなってしまい、私が面倒を見ているのです。見たところ趙雲殿はお気に召した様子。どうです?結婚なされては」と婚姻を持ちかけた。しかし趙雲は激しく怒り「兄嫁に酒を注がせるとは何事か!あまつさえわしと結婚させようとは!忠義のかけらもない奴め」と趙範の顔を何度も殴りつけ、義兄弟の縁を切り、陣へ帰っていった。武士の面を汚された趙範は怒り、部下の陳応とホウ隆に趙雲の討ち取りを命じた。陳応とホウ隆は陣営に入り込み、討ち取ろうとしたが、返り討ちにあい殺害される。趙範は結局、そのまま攻め寄った趙雲に降伏した。自分の行った行動を劉備に話すと劉備は「趙雲は義理に厚い男だ。そなたの行動が気に入らなかったのだろう。そなたが好意でやったことはわかった」と趙範のことを責めずに、そのまま桂陽の太守として留まるよう命じ、趙範は現職に留まった。


姓名:丁原(ていげん) 字:建陽(けんよう)   生死年:?〜189
出身地:不明  役職:井州剌史→騎都尉→執金吾
所属:後漢

説明文:
荊州刺史。少帝の帝位剥奪を図る董卓にただ一人、養子でもある腹心呂布を背後に立ち向かう。が、李儒の策略にはまり、裏切った呂布に暗殺された。彼は呂布・張遼とともに北方の騎馬民族の出といわれている。だが、呂布は董卓の下に降り、張遼も一緒に出て行ってしまった。もう少し部下の心を掴んでいれば、呂布・張遼という名将がそろっていれば、天下に乗り出すことも可能だったはず・・・?でも、周囲が怖れて何も言えなかったあの場で、呂布が控えていたとはいえ、一人董卓に一喝した勇気は表彰モノでしょう!


姓名:陶謙(とうけん) 字:恭祖(きょうそ)   生死年:132〜194
出身地:丹楊郡  役職:廬県令→徐州刺史→安東将軍・徐州牧
所属:後漢→君主

説明文:
曹操の董卓討伐の檄に応じて集結した諸侯の一人。徐州の牧。彼に仕えた、または取り立てた人物は、王朗、筰融、朱治、藏覇、陳登、糜竺などがいる。このような優秀な人材を集めながら生き残れなかったのは、他の英雄に比べ歳をとり過ぎていた事と、感情まかせに行動する面があったからではないだろうか。韓遂討伐の為西方へ出向いた時、上官だっ
た張温を侮辱し怒らせている。また、孫策を忌み嫌っていた。その為孫策は、陶謙を避け江都の母を移住させている。招きに応じない張昭や、陶謙に不信感を抱いていた呂範を捕らえて幽閉した事もあった。ちなみに張昭は趙zcの懸命な運動によって救われている。そんな陶謙は、徐々に実力を付けてきていた曹操と友好関係を結ぼうとして、曹操の本拠地に呼びよせていた曹操の父、曹嵩の道中の護衛を引き受けた。しかしその護衛部隊の張ガイが一行を殺して逃亡してしまう。報復の為押し寄せる曹操軍の攻撃はかろうじてしのいだが、病にかかりそのまま死んでしまった。死の間際に、劉備に徐州を託して。


姓名:孔融(こうゆう) 字:文挙(ぶんきょ)   生死年:153〜208
出身地:魯国  役職:北軍中候→北海国相
所属:後漢→魏

説明文:
なんと、あの孔子の20代とも24代ともいわれる子孫。北海太守を履歴したが…理想の政治が失敗して結局最後は身一つで曹操の元に逃亡、
そして、諸説入り乱れる死因であるが、どれも「余計な事を言って曹操の怒りをかった」と、いうなんともいえない死に方である。
彼に関する逸話はかなり多く「世説新語」に多く収録されている。尚、彼は建安七子に数えられている、彼の詩に…。「座上、客に満ち 樽中、酒空くなし」
と、いうものがあり彼の人生のモットーであろう。蛇足であるが、孔融は家族が処刑されて、血が絶えたという。


姓名:劉璋(りゅうしょう) 字:季玉(きぎょく) 生死年:?〜219
出身地:常山郡  役職:桂陽太守
所属:魏→蜀

説明文:
後漢の皇室に連なる一族で代々、高官を務めてきた。父・劉焉の代に益州の牧となって成都に根拠地を構えた。父の死後、後を継いだが、性格は平凡で乱世の世の中、国を治める能力に欠けていた。北は曹操、東は孫権が勢力を伸ばし、漢中では張魯が国家を築き、益州を狙っているというのに何の対処もせずにいた為、法正、張松、孟達など有能な人材に見限られた。幾度となく攻める劉備を攻撃するが、結局、劉備に国を譲り、君主の幕を下ろす。しかし君主の座を降りた劉璋を惜しむ者はいなかったという。その上、成都城内には兵糧も一年分あり、精兵三万が無傷で残っていたにもかかわらず、降伏を選択するなど、武将としての能力も無きに等しいといっていい。識見、人望、勇気など将が持つべき素質があったならば、こんなお粗末な結果にならなかったと思われる。


姓名:劉焉(りゅうえん) 字:君郎(くんろう) 生死年:?〜194
出身地:江夏郡竟陵県  役職:中郎→洛陽令→冀州刺史→益州牧
所属:後漢→君主

説明文:
漢の魯の恭王に連なる名門で、漢の皇族。黄巾の乱時代、幽州太守に就任していた。黄巾賊討伐の義勇兵を募集し、当時、無名であった劉備を漢朝末裔のよしみで義理の甥として優遇した。黄巾の乱平定後は、中央の混乱を避けるべく、自ら望んで長年空白であった益州刺史の位を受けた。そこで後に益州防衛戦で活躍する張任や厳顔など、有能な士を集め、よく自領を治め、中原から半独立状態を保った。しかし、体調を崩し、病を患った。自分の命が長くないと知ると、益州を息子の劉璋を後継者にするよう遺言を残し、静かにこの世を去った。皮肉にも後に益州は劉焉が義理の甥とした劉備に奪われてしまうのである。


姓名:張松(ちょうしょう) 字:永年(えいねん) 生死年:?〜212
出身地:不明  役職:別駕
所属:劉璋→蜀

説明文:
劉璋配下の文官。身長が5尺足らずの醜男で、演義では「頭が異様に尖っていて額が異様に前に出ている」と記されている。同僚の法正らと共謀して劉備を入蜀させようと画策。劉備陣営に蜀の精密な地形図「西蜀地形図」を渡す。これが劉備軍の蜀攻略に大きな力を発揮するが、張松自身は劉備軍の成都攻略前に内通が発覚されて殺された。魏の曹操の書いた「孟徳新書」を「そんな物は蜀では子供でもそらんじている」といい一字一句間違えずに暗唱したエピソードは有名。


姓名:王累(おおるい)  生死年:?〜211?
出身地:広漢郡  役職:従事
所属:劉璋

説明文:益州の牧、劉璋の従事。赤壁の敗戦の後、曹操は西への侵攻を開始し、馬超らを破って関中、涼州を手にした。そして次は漢中を狙い始めると、漢中で勢力圏を築いていた張魯は予てより仲違いしていた劉璋の益州を先に奪わんとした。劉璋は恐れおののき、部下達に対策を聞くと、法正や張松、孟達らは荊州の劉備に救援を求めるべきと説いた。実はこの時この三人は劉璋の君主としての器に見切りを付け、劉備を益州の牧にせんと謀っていたのである。そんな事とは知らず、劉備を迎えようとする劉璋を止めようとしたのが、王累を始め、張任、黄権らだった。必死に引き止める彼らだったが劉璋の決意は思いの他強く、尽く一蹴した。王累は覚悟を決め、劉備を迎えに行こうとする劉璋を成都城の城門に逆さにぶら下がって待ち構えた。王累は「殿が行くというなら足の縄を切って自害する」と言った。それでも劉璋は決意を曲げず、王累は無念を思って縄を切った。結果、彼らの心配通り、益州は劉備に取られてしまったのであった。


姓名:張任(ちょうじん)  生死年:?〜214
出身地:蜀郡  役職:従事
所属:劉璋

説明文:
劉璋配下の猛将。貧しい家柄の出だったが、文武に優れた能力を発揮し、益州の役所に勤め従事となる。劉備の入蜀時、劉璋を招待した宴席で、劉備の軍師・ホウ統の命で魏延が剣舞の最中に劉璋を斬ろうとした計略を見抜き、いっしょに剣舞を舞いこれを防いだ。
劉備の成都攻略戦が始まると、これに対抗し益州のラク城で奮戦。落鳳坡(現在の四川省徳陽市)でホウ統を射殺するなどの活躍をする。ホウ統を失った劉備は荊州より諸葛亮と張飛・趙雲らを呼び寄せ、諸葛亮の策略に嵌った張任は、張飛に生け捕られる。
張任の勇猛さを認めた劉備は、何度も臣従を勧めるが「士は二君に仕えず」と決して降る事なかったために首を刎ねられ、金雁橋のたもとに埋葬された。
劉備は最後まで忠烈に戦い、忠義を曲げなかった張任に感服し、墓の傍に石碑を立てこれを讃えた。「張任墓」は旧跡として四川省広漢市に現存する。


姓名:張魯(ちょうろ)  字:公祺(こうき) 生死年:?〜?
出身地:沛国豊県  役職:督義司馬→鎮南将軍/五斗米道三代目教祖
所属:劉焉→君主→魏

説明文:
五斗米道の開祖「張陵」の孫にあたる。山深い漢中で五斗米道の自治領を望み、弟の張衛に五斗米道の軍を組織させ、周りの小勢力との小競り合いはあったものの、長年の乱世にもかかわらず平和な自治領を保った。しかしその後曹操の間者からの説得などもあって五斗米道軍を武装解除させて攻め込んできた曹操にあっさり降伏。しかし弟の張衛はそれををよしとせず一部の五斗米道軍と山中へ逃げ込む。その後張衛と一部の五斗米道軍は義勇兵として各地を転々とするが、結局、呉の朱桓いによって討ち取られる。


姓名:えん圃(えんほ)   生死年:?〜?
出身地:巴西郡  役職:功曹
所属:張魯→魏

説明文:
張魯の懐刀。張魯の軍師として五斗米国の独立に大きく貢献した。張魯が漢寧王を望んだとき、これに意見して「今も漢中で独立した勢力を維持し、財力豊か。人民も我々の支配のもと、無事に過ごしております。あえて今、王になる事もありますまい。まずは益州を奪い、その後、王の位に就かれてもよろしいでしょう」と、張魯に益州を奪うよう進言した。曹操が漢中へ侵攻してきたときも圧倒的な軍勢との対戦を避けて南山へ逃走するように勧めた。冷静な分析力の持ち主で、よく張魯を助けて無残な敗戦を免れさせた功績は大きい。張魯降伏後、共に曹操に帰順した。曹操もえん圃の力を認め、張魯と同じように列侯に取り立てている。


姓名:馬騰(ばとう)  字:寿成(じゅせい) 生死年:?〜212
出身地:扶風郡茂陵県  役職:従事→征西将軍→衛尉
所属:後漢→独立

説明文:
西涼に割拠して当初は韓遂等の他の勢力と争っていたが、韓遂と義兄弟となり行動を共にする。後に都に参内した際に宮中の名医吉平と組んで、権勢を誇る曹操を暗殺しようと企むがこれに失敗。息子休、鉄と共に惨殺されて、長男の馬超が怒り心頭長安に攻め込んでくる...と三国演義ではなっているが、正史では馬騰は諸侯の一人としてただ都に留め置かれていた。西涼に残る血気盛んな馬超は父の命を顧みず長安に攻め込み、父馬騰は曹操に惨殺されたとのこと


姓名:馬休(ばきゅう)   生死年:?〜212
出身地:扶風郡茂陵県  役職:奉車都尉
所属:馬騰

説明文: 馬騰の次子。
 演義系三国志では以下のような経緯で登場する。即ち、曹操の専横に苦しむ献帝が、その討伐を時の車騎将軍董承に密詔という形で命じた折り、父馬騰もその討伐メンバーとして連判に加わった。しかし、曹操討伐は事前に露見、未遂に終わり、地元西涼で動乱が発生したこともあって馬騰は一時帰郷する運びとなった。しかし、連判状を入手していた曹操は馬騰を警戒し、彼を征南将軍に任じて南方(孫家の討伐と思われる)平定を命じるという口実で許都に呼びつけるのである。罠と看破した甥馬岱は西涼に留まるよう進言するが、むしろアグレッシブに(ここのところがいかにも血気盛んな騎馬文明人であることをアピールする)曹操討伐の好機ととらえ(ハマったフリをして、ってやつですね)た馬騰は、次子休、三子鉄をつれて東進するのである。長子馬超、件の岱は留守居である。西涼の安定をおもんばかったか、それとも曹操戦での敗北を実は予感していたのか。
 許都に到着後、黄門侍郎黄けい(大をかんむりに圭)と図って曹操討伐を実行せんと計画を詰めていくが、密告によって発覚、駐屯しているところを曹操軍に包囲され、三子鉄は奮戦するも矢襖になって討ち死に。表題の次子休は、やはり善戦むなしく、父騰とともにとらえられて斬首されたという。
 正史では、西方鎮定に功のあった馬家は、その功績によって父騰をはじめ一族の主要な人物は皆、漢王朝の正式な官職を歴任していた(ただし、やはり馬超は曹操を良く思っていなかったのか、曹操が丞相になった折り、例の人材蒐集家ぶりを発揮して馬超を都に招いた時にはこれを拒否し仕官しなかったのに、後に詔勅が下ったときには刺史や大夫になっている)。さて、そんな「朝臣」馬騰は、自らの老いを理由に、過酷な西方防衛を長子超にゆだね、「自ら」入朝した。この折り同行した、次子休、三子鉄はそれぞれ奉車都尉、騎都尉に任じられている。しかし、曹操の権限拡大に伴う、西涼(まあ他地方もそうだが)に対する有形無形の圧迫は、事実上の「人質」馬騰、馬鉄、馬休の危険を顧みない馬超の遠征を招くこととなり、結局敗戦した馬超は漢中、蜀へ降り、「朝敵」馬超の親族は勅によって誅殺されたのである。
 えらく簡単な言い方をしてしまえば、馬超の暴走によって、表題の馬休はじめ一族は殺されたようなモノである。


姓名:馬鉄(ばてつ)   生死年:?〜212
出身地:扶風郡茂陵県  役職:騎都尉
所属:馬騰

説明文:馬騰の三子。
 演義と正史における「登場」と「退場」は馬休の項目を参照していただきたい。
 馬休とともに登場し、馬休とともに死んだ彼を語れば、同じ文章を二度繰り返すことになるからである。登場シーンと死亡シーンしか無いからである。
 そこで、本項目をお借りして、馬休の項で記した件の解釈を施してみたい。 
 正史では父馬騰、兄馬休とともに入朝し、騎都尉にまで出世した馬鉄だが、休にしろ鉄にしろ、父騰が活躍した場面でのこれといった活躍は見られない。無論、記されない歴史もあるわけで、記述の外で活躍している可能性は低くないが、もし目立った活躍が有れば、淡々と史実を並べる正史には、文の構成など考えない突発的な記事が一行なりとも載っても良いはずである。そうした記述のない鉄が騎都尉(まあ、そんなに高い階級じゃないけどさ)に任じられた背景に、父騰の朝廷工作が感じれられはすまいか? 馬家は、当時でこそ「田舎の力持ち」的役割に置かれてはいても、本来馬援の子孫という名門の出である事を自称している。となれば、いつかは中央で返り咲きをという家族的野心があったことは容易に想像できようと言うモノである。そこで、漢の動乱期にうまい具合に地方官として功績を積んだ騰が「老齢」を理由に入朝して曹操「政権」に対する従順ぶりを一見見せながら、その実、故郷に残した漢族の恐れる異民族混じりの騎兵部隊をやはり精強を以て知られる長子超と、沈着な補佐役甥岱に預けて常に中原を伺わせるよう仕向け、そうした武力を背景に朝廷内部で「アンチ曹操」派閥をとりまとめつつ、その中心にのし上がっていこうと言うわけである。
 しかし、そこら辺の工作にはやはり鋭敏な曹操に、その野望の核を見抜かれ、馬家は彼にとって排除の対象となるのである。さればこそ、あの人材マニアが簡単に馬超獲得を諦め、さればこそ西涼の権限を圧迫して馬超の暴発(この直前、馬超は曹操暗殺に失敗しているとも言う。なればこの出征は暗殺失敗、露見に親兄弟の危機を感じ、焦った超が出した救出軍ともとれる)を誘ったのである。
 こう考えると、演義における「悪玉曹操にだまし討ちにあった騰、休、鉄たち」という演出への足がかり的解釈になろう。
 ただ、正史も演義もひっくるめて、何をどう如何に解釈し語ろうが、馬鉄が、馬休同様、父と兄の存在がなければ歴史にその名すら残し得なかった端役中の端役であることを確認するばかりである。


姓名:韓遂(かんすい)  字:文約(ぶんやく) 生死年:?〜215
出身地:不明  役職:計吏→鎮西将軍
所属:後漢→君主

説明文:
西涼に割拠した諸侯の一人。当初は馬騰と争っていたが、行動を共にするようになる。馬騰が息子等と共に曹操に処刑された後、馬超と共に西涼の騎馬隊を率いて長安に攻め込む。馬超韓遂連合軍の勢いが激しく、曹操軍は押され気味であったが、名参謀賈クにより馬超と仲違いし、韓遂が曹操軍に寝返ったために馬超は大敗してしまう...というアコギな人物に三国演義では描かれている。しかし正史では、曹操軍に寝返る事は無く、馬超韓遂連合軍が負けた後も各地を転戦していた気骨のある人物ということである


姓名:候選(こうせん)  生死年:?〜?
出身地:河東郡  役職:官吏
所属:韓遂→馬超→張魯→魏

説明文:
演義系三国志では、韓遂配下の「旗本八騎」のひとり。この八騎、上記程銀の他は、李堪、張横、梁興、成宜、馬玩、楊秋である。この内、程銀、張横、成宜は西涼軍として華々しく(?)戦死を遂げたが、侯選含めた残りの五人は、曹操(立案はカク)の離間策によって馬超に疑念された韓遂に曹操軍への帰順を勧めている。この一件を知った馬超によって、馬、梁、(間接的に)李の三名は殺害されるが、韓遂とともに投降した侯選と楊秋は曹操によって列侯に封じられている。 
 正史での侯選は、やはり馬超らとは互角の同盟者であり、馬超敗戦後、程銀と行動をともにし、曹操政権下で復職している。


姓名:程銀(ていぎん)  生死年:?〜?
出身地:河東郡  役職:不明
所属:韓遂→馬超→張魯→魏

説明文:
演義系三国志では、韓遂配下の「旗本八騎」のひとり。主君の義兄弟馬騰の弔い合戦となった馬超の対曹操戦に主力として付き従い、勇戦(イヤ、多分勇戦したはず。記述はないけどね)した。曹操の計略にかかって包囲殲滅の危機にさらされた韓遂・ホウ徳軍を救出しようとする馬軍と、それを迎撃した曹軍との乱戦の中で、同じく旗本八騎の張横とともに死亡した。この死亡のシーンでさえ、「戦闘後、被害を確認したらいなかった」という、三国志演義上、まれにみる空しい死亡宣告(他の旗本たちは、せめて斬られたり射られたりする描写くらい有るのに・・・)であった。
 正史のなかでの彼は、演義で「旗本」と称された他の七人同様、西涼地方における有力者であり、馬騰や韓遂の同盟者という立場であって、決して配下の将ではない。程銀は、馬家敗北後、張魯に身を寄せていたが、許されて曹政権下で官職に復帰した
という。言うまでもないことだが、決して女性ではない。

 (注:最近程銀その他を女性にしてしまった三国志転生系漫画があるのだ)


姓名:公孫さん(こうそんさん)  字:伯珪(はくけい) 生死年:?〜199
出身地:遼西郡令支県  役職:郎→奮武将軍
所属:後漢→君主

説明文:
幽州の将軍。容姿美麗で美声の持ち主、明るい性格。白い具足をつけ、白馬に乗っていたため白馬将軍と呼ばれていた。虎牢関の戦いの後、袁紹に騙され(その折に従弟の公孫越を殺された)それに怒り袁紹と戦った。しかし、そこで袁紹配下の文醜にあわや討たれる寸前までに追い詰められた。(そこを趙雲が救った)さらに、二度目の戦いでは自慢の白馬陣(白馬の騎兵のみで構成された軍)を用いて戦ったが、袁紹の罠に嵌りまたも討ちとられそうになる。(ここで、今度は劉備の軍が助けた)そこで、董卓から命令された天子(帝)が勅命を送りとりあえずいちど争いはそこで止まる。しかし、袁紹とは終生争う敵であった。そして199年袁紹の軍に囲まれ自害する。(殺されたという説もある)


姓名:公孫越(こうそんえつ)   生死年:?〜192
出身地:不明  役職:不明
所属:公孫さん

説明文:
公孫サンの従弟。袁紹と袁術が争ったとき、袁術は孫堅と公孫越を派遣し攻撃させたが敗れ、その時の流れ矢で公孫越は死んでいる。そのため公孫サンは袁紹が公孫越を殺したと激怒し、袁紹と争うようになる。演義では公孫サンの弟で、袁紹が冀州をともに攻め分割しようという約束を果たそうとせず、公孫サンの命で、使者になるが帰り道に袁紹の伏兵に殺される。このことから袁紹・公孫サンは争うことになる。



姓名:王朗(おうろう)  字:景興(けいこう) 生死年:?〜228
出身地:東海郡  役職:郎中→諫議大夫→司空→司徒
所属:後漢→陶謙→魏

説明文:
孝廉出身で後漢に仕えた会稽の太守。厳白虎に味方し、孫策に対抗したが敗れた。その後は魏の朝廷に仕えた。博識の戦術家で有名で老いてからは大儒の風格があったといわれる。蜀の孔明が祁山に出陣し、長安を狙う勢いを見せた時、総大将・曹真の軍師として出陣。祁山で対峙した両軍は王朗の主張で開戦前に論戦で勝負に出る。王朗は孔明に論戦で勝つ自身があった。錦の直垂に黒塗りの鎧姿で白髯をなびかせ陣頭に立った。王朗は昔、季布が高祖を陣頭で論破し、戦にも勝った前例を再現するつもりであったのだ。挑戦を受けてたった孔明は蜀王朝の正当性を説くとともに、魏に仕える王朗の不忠を鋭く責めた。王朗は孔明が放つ痛烈な言葉に耐え切れずに憤死した。


姓名:厳白虎(げんはくこ)   生死年:?〜?
出身地:呉郡鳥程県  役職:不明
所属:独立

説明文:
呉地方に勢力を張り、「東呉の徳王」と自称していた豪族。玉璽と交換で袁術の兵を借り侵攻してきた、「小覇王」孫策に対して楓橋にて応戦。大敗を喫する。かなわじと見た厳白虎は、弟、厳輿を使者として和睦を申し入れたが聞き入れられず、危険を感じ、会稽の王朗を頼る。王朗と共に、地域の諸豪族を吸合して孫策と戦うが再び破れ、山賊に成り果てたところを、董襲に殺された。


姓名:劉岱(りゅうたい)  字:公山(こうさん) 生死年:?〜192
出身地:牟平県  役職:侍中→刺史
所属:後漢

説明文:
エン州の刺史。後漢の皇族で劉ヨウの実兄。董卓の非道ぶりに憤りを感じていた一人で、反董卓連合が発足されると連合軍に合流、参加した。反董卓連合が解散すると、自国が兵糧不足であったため、隣国の喬瑁に兵糧の借用を申し込んだが、断られる。劉岱は兵糧借用を断られたことを恨み、喬瑁を攻め殺した。二年後、青州の黄巾賊残党の行動が活発になると、黄巾残党を抑えきれず曹操に帰順し、鮑信と協力して討伐をおこなった。しかし、黄巾の残党は大軍で、兵の士気は下がる一方であった。劉岱は兵の士気を上げるべく、鮑信の制止を振り切り、無謀な攻撃をかけ、討死にした。正史での劉岱は黄巾の乱で戦死したとされている。


姓名:鮑信(ほうしん)   生死年:152〜192
出身地:泰山郡平陽県  役職:騎都尉→済北相
所属:後漢

説明文:
後漢の武将で、後軍校尉。後に済北国の相に任命される。十常侍の乱に乗じて董卓が洛陽に入城し、暴虐の限りを尽くすと、袁紹・王允に董卓を暗殺して災いを未然に防ぐよう進言する。後に曹操が反董卓連合軍を発足させると、鮑信は前々から董卓の非道に憤っていたため、迷わず参加した。また、鮑信は曹操を高く評価し、親交を結んだ。連合軍解散後は、曹操と協力して青州の黄巾賊残党の討伐をおこなった。曹操と共に寿陽で戦場視察を行っていた際、白兵戦となり、乱戦の中、曹操を助けて自分は戦死した。鮑信の子らは曹操が引き取り、その子らは新都亭候、御史中丞にまでのぼった?


姓名:張角(ちょうかく) 字:?   生死年:?〜184
出身地:鉅鹿郡  役職:大賢良師
所属:黄巾賊

説明文:
後漢末における戦乱の直接の引き金と言える黄巾の乱。その乱を起こした太平道の指導者がこの張角である。隠しようの無い漢朝の腐敗に対して、農民を深い団結力で結び付け反旗を翻したのだ。その勢いは凄まじく、わずか半年足らずの間に数十万の勢力を形成し、朝廷が送り出した官軍と対決することとなる。この時に、兵達が黄色い頭巾を着けていたことから、黄巾の乱と呼ばれた。序盤は民の士気も高く勝利を重ねたが、八月に張角が死亡、続けて弟の張宝、張梁も戦死し、反乱は一年を経たずに終息してしまう。しかし張角の意思は民の間に強く残り、以降二十年余りにわたって漢朝は黄巾の残党の反乱に悩ませられた。演義で張角は悪役として描かれているが、それは中国の人口を激減させた戦乱のきっかけを作ったとされるからだろう。


姓名:張宝(ちょうほう)   生死年:?〜184
出身地:不明  役職:地公将軍
所属:黄巾賊

説明文:
兄・張角の旗揚げに参加した。兄の張角と同じく幻術の達人で、官軍を何度も苦戦に追い込んだ。穎川方面で黄巾軍の指揮をとり、朱シュン軍と激戦を展開したが、朱シュン軍の先鋒を務めた劉備の放った矢を左ひじに受けて負傷。二人の兄を失った後も、陽城に立てこもり、包囲する朱シュンの軍勢に抵抗した。黄巾軍が劣勢になり、落城必至と見た配下の厳政に裏切られ、あえない最後を遂げた。厳政は張宝の首を持って朱シュンに投降し、陽城は落城した。


姓名:張梁(ちょうりょう)   生死年:?〜184
出身地:不明  役職:人公将軍
所属:黄巾賊

説明文:
天公将軍・張角の末弟。黄巾の乱の指導者の一人で、兄の旗揚げに参加、地公将軍を自称した。二人の兄と同じく妖術を習得し、武勇もあった。各地で官軍と激戦を繰り広げ、官軍の将軍・ロ植を苦しめた。また、ロ植の後任となった董卓にはしばしば勝利を収めるなどの功績を上げた。黄巾党指導者で兄の張角が病死すると、あとを引き継いで、官軍大将の皇甫嵩の軍と戦ったが、張角病死に勢いづいた官軍に押され、七度の戦いに敗れ、敗走したが、曲陽で皇甫嵩に斬り殺された。


姓名:董卓(とうたく) 字:仲穎(ちゅうえい)  生死年:?〜192
出身地:隴西郡  役職:司馬→中郎将→太尉
所属:後漢→独立

説明文:
若い頃は親分肌で人心掌握の術にも長けて腕力も抜群だった。胡(北方異民族)の討伐でも数々の戦果を上げ、昇進を重ねて中朗将となった。
その後黄巾賊討伐で敗北して免官となったが韓遂らが涼州で反乱を起こすと復職して鎮圧にあたった。この戦いで数万の敵に囲まれながらも董卓は軍勢を損なわず帰還出来た。その力を恐れた朝廷は軍隊を左将軍の皇甫嵩に預けようとしたが董卓は勅命に逆らい続けて力を貯えていた。その頃何進が宦官撲滅を図る為全国の諸侯を召し寄せ、董卓もこれに応じた。しかし董卓が洛陽に到着するまえに何進が宦官らに殺され、少帝と陳留王が連れ去られたが董卓がこれを保護して洛陽に入り、少帝を廃して陳留王を献帝としてたてた。もちろん少帝、その母の何太后は殺された。さらに呂布を寝返らせ、先政に関わる者は殺された。ここから董卓の暴虐振りがひどくなる。巡行中住民達が春祭りを楽しんでいるのを見るとそこにいた男子すべての首を斬り女性や財宝を奪い取って兵隊達の妾に与え、宮女や公主にまで暴行を加えた。また陵墓を暴いて宝物を奪い自分の住む所には30年分の食料を貯えた。酒宴では反逆者の舌や手足を切り眼をくり抜いたりして大鍋で煮たりした。集まった人達はあまりの地獄絵図に箸を落としたが董卓は平然と食べたという。190年各地の諸侯が袁紹を盟主として董卓討伐の兵を挙げるが、空中分解した。しかし董卓の独裁政権も長くは続かず192年司徒の王允は呂布を誘って董卓殺害を謀る。「演義」では王允の下女の貂蝉を使い、「連環の計」で董卓と呂布を仲違いさせたことになっている。「正史」では呂布が董卓の侍女と密通していていたので事が発覚するのを恐れた為とある。どちらにせよ、結局女絡みで殺されたのである。董卓は会議に参列するという名目で未央殿に招かれる。そして宮殿に入ろうとしたところを衛士に阻まれ「呂布はどこだ」と叫ぶと詔を賜った呂布によって殺害された。
董卓の死体は市場にさらされたがへそに火をつけると何日も消えなかったという。


姓名:呂布(りょふ) 字:奉先(ほうせん)  生死年:?〜198
出身地:五原郡九原県(内蒙古自治区包頭市)  役職:調査中
所属:丁原→董卓→袁紹→張楊→張ばく→劉備→独立

説明文:
「馬中の赤兎、人中の呂布」で有名。三国志最強の武将。通り名:飛将軍。初め、丁原の配下で養子であったが、呂布の力量に目をつけた董卓が、呂布と同郷の李粛に名馬・赤兎馬を送り物とし丁原の陣に向かわせた。本来、物欲に弱かった呂布は、天下の名馬の贈り物に負け、丁原を殺害し、董卓配下に加わる。董卓が朝廷の重臣になるにつれ、呂布も立身を続け、奮威将軍になった。董卓は呂布の歓心を買い、丁原同様、呂布を養子とした。反董卓連合が結成され諸将は、虎牢関まで攻め入るが、虎牢関を守る呂布の前に多くの武将を失う。そして、劉備の義弟・張飛が呂布に挑戦。打ち合うこと五十合に及んだが、勝負がつかず、この間に関羽、劉備も応援に駆けつけた為、不利を悟り、逃げ去った。その後、董卓抹殺を企む王允のチョウ蝉を使った「連環の策」が発動する。チョウ蝉の色香に董卓、呂布は迷い、チョウ蝉の奪い合いで、両人は仲が悪くなった。連環の策は見事に的中し、次に王允は帝位を譲ると虚偽の勅令を出し、董卓を宮廷に呼び出す。董卓が宮殿に入ると剣を手にした兵が並び、驚いた董卓は呂布に助けを求めたが、チョウ蝉を奪った董卓に対する怒りが溜まっていた呂布は「詔だ。逆賊董卓、覚悟しろ」と一喝。矛で喉を突き刺し、董卓を殺した。呂布は二人の養父をその手で殺したのだ。しかし、董卓の死を怒った李確、郭シらの反撃に合い、単騎、長安を脱出した。呂布自身、常に天下に君臨しようという野望を抱いていたので、頼ろうとしたエン術に断られ、エン紹に殺されそうになる。結局、自立以外に道の無い呂布は、軍師・陳宮の勧めで曹操の本拠・エン州を襲撃、奪取に成功する。エン奪還を図る曹操とは一進一退したが、肝心な所で陳宮の策を採用せず、結局一敗地にまみれ、徐州・劉備を頼る。呂布を暖かく迎えた劉備は小ハイの城を守らせたが、隙をついて徐州を奪う。しかし、抜群の武勇を誇った呂布も、陳宮の忠義と才能の心も生かせず、陳珪父子の策にかかって窮地に陥る。その後、劉備・曹操連合軍と戦ったが、配下に裏切られ生け捕りにされるという形で人生に終止符を打つ事になった。最後に打首直前の陳宮が「呂布は愚かであったが、曹操、貴様のように偽り多き姦雄ではない」と捨て台詞を吐いたのが、せめてもの救いといえるであろう。


姓名:高順(こうじゅん)   生死年:?〜198
出身地:不明  役職:中郎将
所属:呂布

説明文:
清廉潔白な人柄で知られ、中郎将として「陥陣営」と呼ばれる700人の精鋭を率いる。配下のカク萌が呂布に謀反するとこれを斬った。呂布が曹操に背くと、沛にいた劉備を撃ち破り、救援にきた夏侯惇の軍も撃破した。いつも呂布をいさめていたが聞き入れられず、最後は呂布、陳宮と処刑された。


姓名:何進(かしん) 字:遂高(すいこう)  生死年:?〜189
出身地:南陽郡宛県  役職:屠殺業者→大将軍
所属:後漢

説明文:
はじめ、何進は屠殺業を営んでいた。何進の妹は美しく、妹が霊帝に気に入られ、後宮に入り、霊帝の寵愛を受けて皇子・弁(後の少帝)を生んだところから出世の糸口が開け、大将軍にまで成り上がった。霊帝の生母・董太后が王美人が生んだ皇子・協(後の献帝)を溺愛し、帝の後継者にしようと画策した。その時ちょうど、霊帝が逝去したため、十常侍は董太后と図って、協を帝位に就けようとした。これを知った何進は邪魔者扱いにされ、殺されると思い、兵五千を率いて宮殿に乗り込み、十常侍の幾人かとその協力者を斬り、妹の生んだ弁を即位させた。帝の叔父として全権を掌握した何進は邪魔な董太后を毒殺した。何進の権勢を妬むカン官勢力は結束して何進に対抗。これに対し何進はエン紹らの提案を取り入れて各地の豪族を洛陽に集めて一気にカン官討伐することにした。慌てたカン官一味は何太后(何進の妹)が呼んでいると欺き、何進を宮殿におびき寄せた。何進はまんまとその策にかかり、暗殺された。後に恐怖政治を行う董卓をはじめ、各地の豪族を召集した事から、世は一気に群雄割拠の乱戦時代を迎えるが、そのきっかけを作った男であった。また、もともと屠殺業を営んでいた町民であったため、部下を掌握する事もできず、乱世を治める器量もなかった。


姓名:献帝(けんてい)   生死年:180〜234
出身地:洛陽  役職:陳留王→第十四代皇帝→山陽公
所属:後漢

説明文:
後漢王朝最後の皇帝で姓名は劉協。後漢第十二代皇帝霊帝の次男。霊帝死後兄の劉辯が少帝として即位すると陳留王に封じられたが、
9歳にして董卓により皇帝に立てられた。しかし皇帝とは名ばかりで長安強行遷都により長安に移住したが、
董卓暗殺の混乱に乗じて長安を脱出して洛陽に帰還した。洛陽は董卓による焼き討ちで廃虚と化していた為曹繰の勧めで
許へ遷都した。 結局董卓から曹操に変わっただけで名だけの皇帝だった。だが献帝は車騎将軍の董承に密勅を与え曹操討伐を謀るが失敗し董承は処刑される。
曹操死後は後を継いだ曹丕に帝位の禅譲を迫られたのち、山陽公に格下げとなり後漢王朝は終焉を迎、漢帝国最後の帝となった


姓名:霊帝(れいてい)   生死年:156〜189
出身地:洛陽  役職:第十二代皇帝
所属:後漢

説明文:
後漢第12代皇帝で姓名は「劉宏」霊帝は皇帝自ら官職を売り私財を貯える事に精を出していた。官職を買い占めて勢力を伸ばした宦官たちに印璽を預けるなど十常侍に詔勅を自由に操られた。そして宦官達は官職を買い占めて自分達の縁者を地方官にし、飢饉に苦しむ農民からさらに搾取をした。宦官達はそのお金で新たな官職を買い漁りやがて中央政界まで牛耳るようになる。そんな腐敗しきた宦官政治を排除しようとクーデターが計画されたが情報が漏れ失敗に終わる。見せしめとして首謀者・陳蕃他100人あまり惨殺され、2000人に及ぶ者が拷問を受け、逆に宦官の力を世に知らしめる事になった。これを「党錮の禁」という。「演義」では臨終の際後の献帝となる劉協を後継に立てたいため宦官の蹇碩と謀って何進大将軍誅殺を企てたが実行する前に亡くなった。


姓名:少帝(しょうてい)   生死年:176〜190
出身地:洛陽  役職:第十三代皇帝→弘濃王
所属:後漢

説明文:
本名:劉弁。霊帝死後、霊帝の後妻・何太后は兄・何進と画策して自分の子・劉弁(少帝)を後継ぎにした。しかし、何進が十常侍に暗殺され、その十常侍をエン紹らが討伐に乗り出すと、十常侍の張譲らは少帝と陳留王(後の献帝)を宮殿外へ連れ出した。その後、十常侍が殺されると、陳留王と共に農家で潜伏。後漢の武将・ビン貢に救われ、九死に一生を得た。しかし、董卓が洛陽の都に入り、権力を得ると、少帝は廃されて陳留王が帝に立てられた。少帝は弘農王に格下げされ、やがて何太后ともども毒殺された。霊帝の悪政が漢王朝を滅ぼし、息子の少帝や献帝の悲惨な末路につながるのであった。少帝は献帝と同じく、権力争いの道具として使われた、悲劇の皇帝であった。


姓名:十常侍(じゅうじょうじ)   生死年:176〜190
出身地:洛陽  役職:第十三代皇帝→弘濃王
所属:後漢

説明文:
曹節:十常侍の一人。霊帝や少帝の代に忠臣を投獄したり、追い払ったりするなど、専横な振る舞いをした。袁紹らが十常侍誅殺を実行した際、少帝、陳留王を連れ出し逃亡を図ったが、途中で殺された。張譲:十常侍の一人。霊帝に取り入って権勢を得た。宦官ながら列侯に封じられた。その頃から専横な振る舞いが多くなった。何進を暗殺した後、袁紹らの十常侍誅殺実行の際、少帝、陳留王を擁して逃亡したが、追っ手に追い詰められ、入水自殺した。

趙忠:十常侍の一人。張譲らと共に権力を振るったが、袁紹らの十常侍誅殺の際、殺された。

封ショ:十常侍の一人。黄巾の長・張角の誘いに応じ、内応の承諾をするが、張角の
部下・唐周に裏切られ投獄された後、殺された。

段珪:十常侍の一人。董太后に取り入り何進暗殺を画策したが、何進が董太后を毒殺
したと知るや寝返り、何太后に取り入った。何進暗殺後、十常侍撲滅に際し少帝らを
擁し、逃走したが、追っ手のビン貢に斬られた。

侯覧:十常侍の一人後漢の清流派・張倹を投獄したことで有名になった。十常侍撲
滅の時、張譲、段珪、曹節らと少帝、陳留王を擁して逃亡を図ったが、途中で追っ手
に殺された。

ケン碩:十常侍の一人。何進を殺し、劉協(献帝)を帝位に擁立しようと企んだが、
何進殺しの汚名を受けたくない他の十常侍に疎まれ、郭勝に殺される。

程コウ:十常侍の一人。袁紹らの十常侍誅殺のおり、殺害された。

夏ウン:十常侍の一人。宮廷で権力を振舞った。袁紹らの十常侍誅殺で、宮廷で乱戦
になった際、逃げ遅れて殺された。

郭勝:十常侍の一人。後宮にあって権勢を振るい、少帝即位後、同僚のケン碩を殺害
する。十常侍誅殺の際、宮中乱戦になり、他の宦官仲間と共に殺された。


姓名:兀突骨(ごつとつこつ)   生死年:?〜225
出身地:鳥戈国  役職:鳥戈国王
所属:南蛮

説明文:
兀突骨は孔明が南蛮制圧の時に出てきて南蛮王孟獲と共に蜀軍と戦う武将です。藤で作った藤甲と言う水に浮かび剣や槍を通さない鎧を使い孔明率いる蜀軍を苦しめました。

身の丈一丈二尺(276?)という大巨人。穀物はいっさい食べず、生きた獣や蛇を食べていたため、身体の皮膚は鱗のように硬く、刃物で斬りつけても傷が付かなくなっていたという。孟獲は最後の切り札として、兀突骨に加勢を頼み込んだ。承知した兀突骨は、藤の蔓に油を染み込ませ乾かして作った「藤甲鎧」を身に付けた、強力で勇猛果敢な「藤甲兵」を率いて出陣。初戦は刃を通さぬ藤甲軍に圧倒された蜀軍を大いに打ち破った。しかし、武勇一辺倒の男であったようで、孔明の策にあっさり引っかかった。孔明は地雷を使って藤甲兵を火攻めにした。藤甲鎧は油に染み込ませ作っていたため、藤甲兵三万は一人残らず焼死し、兀突骨自身も部下と共に焼死した。この戦いは孔明が自分の行為のため三万の人間を殺した事を悔やんで涙を流した程の殺戮劇であった。


姓名:金環三結(きんかんさんけつ)   生死年:?〜225
出身地:鳥戈国  役職:南蛮第一洞主
所属:南蛮

説明文:
孔明の南征時に進軍してきた蜀軍に対して、南蛮王孟獲に命じられ第二洞主:董荼那、第三洞主:阿会喃とと もに出兵、それぞれ兵5万で右翼を攻撃を計画し実行したが、趙雲、馬忠の夜襲の中で、趙雲に一突きで討たれ死亡した。他の二人の洞主達は捕らえられたが蜀軍の強大ぶりを屈服した。


姓名:祝融夫人(しゅくゆうふじん)   生死年:?〜?
出身地:不明  役職:孟獲夫人
所属:南蛮

説明文:
実際は実在したかは定かではない人物で正史には登場しないが演義においては女性でありながら自ら馬に乗って蜀軍と戦うと言う、とても濃いキャラクターで南蛮王孟獲の妻として登場する。伝説の火の神、祝融氏の末裔にして飛刀の名人という設定。孔明の南征時に孟獲と共に戦うが何度も捕らえられるが逃げて良いと言う孔明の寛容さに心を打たれ孟獲と共に帰順する。


姓名:ケイ道栄(けいどうえい)   生死年:?〜208
出身地:不明  役職:不明
所属:劉度

説明文:
劉備が荊州の南の四郡を征討した時に、零陵の太守をしていた劉度の配下で、大斧の使い手。演義だけに登場する武将で正史にはその名は見当たらない。劉備の征討時に劉度の子「劉賢」と共に劉備軍と戦うが、諸葛亮の計略によって敗れ降伏。劉備が処刑を命じるが、諸葛亮はそれを静止し「降参したければ劉度を捕らえて来い」と命じ釈放する。しかし陣に戻っても約束を守らず、再び劉備軍を攻めて趙雲にやられる。


姓名:紫虚上人(しきょじょうにん)   生死年:?〜?
出身地:不明  役職:不明
所属:なし

説明文:
人の地位はおろか、生死まで見通す神眼を持っていたと言われる隠者。劉備軍と戦う為に、劉カイ・張任らは五万の兵を率いてラク城に向かう途中に紫虚上人に会いにいった。上人は「人の吉凶などわかるはずがなかろう」と断ったが、再三の頼みに八句の言葉を書いて張任らに渡した。「竜と鳳、西川に入る。鳳雛地に落ち、臥竜天に昇る。天数まさにしかるべし」すなわち「孔明とホウ統は益州に入る。ホウ統は死に、孔明は益州を治める」このように予言した。劉カイらは自分たちの運命を尋ねるが、上人は「天命からは逃れられない。聞いたところで何になる」と言ったきり口を閉ざした。不吉な予言に剛直な張任は「あの様な気違いの言葉なぞ信じても何の得にもならん」と怒ったが、結果、上人の言う通りになった。


姓名:馬元義(ばげんぎ)   生死年:?〜184
出身地:不明  役職:不明
所属:黄巾党

説明文:
黄巾党の指導者・張角の配下。太平道教団の幹部・大方(“たいほう”と呼ばれた。方とは将軍を意味した)であった。張角が黄巾の軍を起こすにあたって、宦官の封ショに賄賂を贈って内応させようと企む。馬元義はその使者となり、洛陽に侵入したが、同門の唐周が裏切り、官の役所へ駆け込み、張角が反乱を企てていると告げたため、馬元義は何進に捕えられ、処刑された。内応承諾後の挙兵にあたっては、荊州・楊州の太平道信者数万人を率いる予定であった。また、馬元義が処刑されたため、張角は予定より一ヶ月早い総決起指令を発さざるを得なかったという。


グループ名:竹林七賢

説明文:
俗世間を嫌い老荘思想を追求していたインテリ集団
魏は曹操から曹丕から曹叡と、次々と君主が代わることによって魏の地盤が緩み、司馬一族の勢力が拡大してきた変革期。
世間に嫌気がさした個性的な七人の賢者が集まり隠居して、竹林で酒を楽しみながら老荘思想について語っていた。
そのことから竹林の七賢人と言う意味で竹林七賢(竹林の七賢)と言われている。

姓名:阮籍(げんせき) 字:嗣宗(しそう)  生死年:210〜263
説明文:七賢の中の中心人物でリーダー的存在。健安七子の一人である阮うの子供。幼い時から能力を高く評価され司馬懿に召され出世する

姓名:阮咸(げんかん) 字:仲容(ちゅうよう)  生死年:?〜?
説明文:阮籍の兄の子供。琴の名手であったと言う。阮籍とあわせて「大小阮」と呼ばれていた。

姓名:ケイ康(けいこう) 字:叔夜(しゅくや)  生死年:223〜262
説明文:神仙の世界に興味を持っており、仙人になろうと修行し不老長寿の道をしめす「養生論」を記す。無実の罪の友人をかばって連座し処刑される

姓名:山とう(さんとう)  字:巨源(きょげん)  生死年:205〜283
説明文:七賢のなかで一番の酒豪。隠居していたが出世志向の側面もあり、晋国が建国されると17年間重職を勤めた。

姓名:劉伶(りゅうれいう) 字:伯倫(はくりん)  生死年:?〜?
説明文:体が小さく、顔はお世辞にもカッコ良いとは言えない人物だったらしい。酒が好きで客が来るとよく素っ裸で出迎えとがめられた。

姓名:向秀(しょうしゅう) 字:子期(しき)  生死年:227?〜272
説明文:老荘を特に好み「荘子」に注釈をくわえた人物。

姓名:王戎(おうじゅう)  字:しゅん仲(ほんしょ)  生死年:234〜305
説明文:七賢の中で最年少者。司徒まで昇進した。ケチだったらしい。


以上

●こちらの三国志事典の内容について
 三国志と言う物も内容柄、正史や演義などの色々な解釈がありますので、編集人としても少々悩んで編集しておりおります

 内容に関して異なる意見のある方は、受けつけておりますでご連絡頂けますと幸いです

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