三国志ブランド「赤兎馬」がおくる三国志Tシャツ、三国志グッツの専門店「三国志ショップ赤兎馬」


姓名:劉備(りゅうび) 字:玄徳(げんとく)   生死年:161〜223
出身地:[シ豕]郡 役職:安喜県尉→左将軍→漢中王→皇帝
所属:公孫さん→田楷→陶謙→君主→呂布→曹操→袁紹→劉表→君主(蜀)
能力値:武:72 知:56 統:75 政:69 魅:100

説明文:
三国志演義の主役ともいえる蜀の君主。劉勝の血をひいているというが確証はない。天下のために立ち上がり、漢王室の復興を提唱した。自ら三顧の礼をして迎え入れた天才軍師、諸葛亮孔明の計略によって西蜀の地を得た。関羽や張飛とともに義兄弟の契りを結び、後、蜀皇帝になった。はじめは呉と組んで赤壁の戦いなどで魏を破っていったものの、関羽が呉の呂蒙の策にはまり、殺されたと聞いて激怒し、呉の討伐に向かった。しかし、呉の軍師、陸遜率いる呉に、火計によって大敗し(夷陵の戦い)、失意のままにこの世を去った。


姓名:劉禅(りゅうぜん) 字:公嗣(こうし) 英読 Liou Chan   生死年:207〜271
出身地:不明  役職:蜀2代皇帝(後主)
所属:
能力値:武:23 知:38 統:12 政:25 魅:34

説明文:
父である劉備は、早くから劉禅が蜀を統率できる器ではないと見抜いていたようで、臨終の際には彼ではなく、諸葛亮に後事を託し『もし我が子に才がないのなら、迷わずに君が帝位に就いて欲しい』と遺言した。劉備の勘は的中、諸葛亮・費イ・ショウエンが国政を見ている間はよかったが、三人の没後、宦官黄皓に政治を任せ、酒色に溺れるようになった。魏軍が成都に侵略すると、部下を見捨てて降伏。以後、洛陽で気ままに過ごしたというが、生涯反省の色もなく、天然ボケで人々は苦笑いしたという。


姓名:劉封(りゅうほう)  生死年:?〜220?
出身地:不明 役職:副軍中郎将→副軍将軍
所属:
能力値:武:67 知:57 統:60 政:51 魅:60

説明文:
劉備の養子で元の姓は寇。武芸に秀で蜀平定に活躍。その後、孟達と上庸の守りについたが、もともと仲が悪く、関羽の救援要請を断ったため、孟達は魏に降る。彼はそれを討伐しようとしたが、敗れて成都へ帰り、のちの憂いを考え自害させられた。演義では劉禅が生まれたあとの養子であり、それを関羽が反対したことや孟達の援軍反対などで援軍を送らなかった。劉備に処刑される。

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劉封はハン城の県令・劉泌の甥で、本名:冠封。両親を亡くした為、劉泌の世話になっていた。劉備がハン城を攻略した際、劉泌と会話をしていた時に劉泌の側に立っていた。劉備は「凛々しい若者だ。よければ養子にくださらんか」と養子縁組みを劉泌に頼んだ。劉泌は「これほど幸せなことはありません」と大喜びで了承。冠封自身も「天下に聞こえし仁徳者の息子になれるとは…」と涙を流し喜んだ。その時に名前を『劉封』と改名した。関羽は「殿には『阿斗』様がいらっしゃるではありませんか!後のお家騒動の災いになりまする」と劉備に詰め寄ったが、劉備は気にしなかった。劉封はその後、中堅の武将として活躍。三国鼎立後、漢中戦では劉備の側にいて、劉備から三度に渡って一騎打ちに指名される程になった。曹操は「何かというと、もらい子を出しおってからに」と毒づいたという。劉備が漢中王になると劉封は、孟達と共に上庸の守りに就いた。そこへリョウ化がやって来て「関羽様が同盟国の呉の裏切り合い、窮地に陥っておられます。どうか援軍を」と援軍を頼みにきた。劉封は早速、援軍に向かおうとしたが、孟達が「敵は大軍。この城の兵力では多勢に無勢です。それに、貴方が劉備様の後継者に選ばれそうになった時、反対したのは関羽様です。貴方は厄介払いに上庸に追いやられたのですぞ」と言い、迷う劉封を尻目にリョウ化を追い払った。この為、関羽は麦城で刑死。劉封は援軍を断った罪を恐れ、魏に降った孟達と戦ったが破れ、成都へ逃げ帰ったが、劉備に「おのれは誰の息子じゃ!この劉備の息子であろう。わしと関羽は義兄弟じゃ。おまえには関羽は叔父にあたる。その叔父を見捨てて、のこのこ帰ってくるとは何事じゃ。おのれは不忠者じゃ!関羽を見捨てた罪は重い。死罪じゃ」と大喝され、刑場に連れていかれた。その後すぐ、劉封の配下がつなぎ合わせた紙を持ってきた。劉封配下は「劉封様は関羽
様の援軍に向かわなかった事をひどく後悔なさっておられました。孟達が魏に降った際、劉封様を魏に引き入れようとこの手紙を持ってきました。劉封様は『義父と言えど父は父。その父を裏切れと言うか!許さぬぞ、孟達め!』とお怒りになり、討ってでられましたが、策にかかり戦に負けました。劉封様は不忠者ではありません。死罪は取りやめてください」と懇願した。劉備も「劉封も忠義を心得ておったか。死罪にするのはかわいそうだ。死罪は取り消そう」と急いで刑場へ向かったが、劉封はすでに刑に服した後であった。劉封の首を前に劉備は「怒りにまかせて、なんと愚かなことをしてしまったのだ!」と叫び、首を抱きしめ泣きじゃくったという。劉封は忠義を守り通した男であったが、不幸に満ちた人生であった。


姓名:諸葛亮(しょかつりょう) 字:孔明(こうめい) 英読 Chu-ko Liang   生死年:181〜234
出身地:瑯邪郡陽都県  役職:軍師中郎将→軍師将軍→丞相
所属:
能力値:武:55 知:100 統:97 政:96 魅:96

説明文:
父親の諸葛珪は彼の幼い頃に亡くなっており、叔父の諸葛玄に伴われて荊州へ移った。叔父の死後、諸葛亮は農耕生活を営んでいた。徐庶の推薦を聞いた劉備は諸葛亮を三顧の礼により迎え入れた。彼は荊州・益州を拠点として魏の曹操・呉の孫権と対立するという、天下三分の計を劉備に示した。彼はしばしば自分を管仲や楽毅になぞらえていたが、その通り、帝位についた劉備により丞相に任じられ、蜀の国政を担うようになった。劉備からの信頼は厚く、遺言で子の劉禅が補佐するに足りない人物であったら代わりに国を取れとまで言われた。忠義に厚い諸葛亮はあくまで無能な劉禅を補佐しつづけた。南方の異民族を平定すると、劉備の遺業達成を掲げ、幾度も北伐を敢行した。しかし、過労がたたり五丈原で魏の司馬懿と対峙したまま陣中で病没した。抜群の政治手腕により、蜀の国力は増し民衆の支持を得た。また賞罰は公正さを重視しており、日頃彼が目をかけていた馬謖が命令無視により大敗を喫したためやむなく処刑したことは、泣いて馬謖を斬るの故事で有名である。演義では卓越した軍略家として描かれており、赤壁の戦いで呉の周瑜と知恵比べをしている。


姓名:関羽(かんう) 字:雲長(うんちょう)  生死年:?〜219
出身地:河東郡解県  役職:別部司馬→偏将軍→前将軍
所属:
能力値:武:98 知:87 統:95 政:65 魅:94

説明文:
劉備や張飛とともに、義兄弟の契りを結んだ。知勇兼備の猛将で、劉備からは絶大な信頼を得ていた。劉備が曹操に敗れたときには、劉備の妻子を守るために曹操に降伏したという。そして曹操が袁紹を頼っているという報告を聞くと、すぐに曹操の元を離れて、五関で六将を斬った。そして養子の関平と出会い、また張飛と再開して劉備の元へと帰ってきた。これを「関羽千里行」という。しかし、強すぎる程の正義感が災いして、荊州を呉に奪われた後、自らも呂蒙の策にはまり、捕らえられて殺されてしまった。蜀の五虎大将の筆頭といえるだろう。


姓名:趙雲(ちょううん) 字:子龍(しりゅう)  英読 Chao Yun 生死年:?〜229
出身地:常山郡真定県  役職:牙門将軍→征東将軍→鎮軍将軍
所属:公孫讃→蜀
能力値:武:97 知:90 統:96 政:80 魅:97

説明文:
常山真定の出身。蜀の五虎将の1人で、関羽・張飛に次いで、公孫サンのもとから劉備の配下へ。一騎打ちで文醜を退け、『空城の計』を考案するなど、まさに文武両道。長坂破の戦いでは、阿斗を救うため単騎で百万を越す魏軍の中を駆け抜け、曹操はその凄まじさに舌を巻き、殺すのは惜しいと弓を使うのを禁じたほど。諸葛亮は『子龍は満身これ胆である』と高く評価し、七十歳で死去したときには、片腕を失ったと言って嘆いたという。幼い頃は、母を養うために河で魚を捕っていたが、誰にも教わらないのに体を傷つけないようにと魚の『眼』だけを槍で突くという離れ業もできたというエピソードがある。


姓名:張飛(ちょうひ) 字:益徳(えきとく)又は翼徳(よくとく)  英読 Chang Fei 生死年:?〜221
出身地:[シ豕]郡 役職:別部司馬→征虜将軍→車騎将軍
所属:
能力値:武:99 知:39 統:76 政:22 魅:39

説明文:
肉屋をしていたが、ある日出会った劉備・関羽と義兄弟の契りを結び、一大事業に乗り出すことになる。この有名な桃園結義に至るまでの三人には数え切れないほどたくさんのエピソードがあるが、1番オーソドックスなのが、官軍募集の看板を見て溜息をつく劉備を一喝する、というもの。魏の将夏侯覇を落馬させた大声と、数々の失敗を生み出した大酒が彼のトレードマーク。馬鹿力で浅はかだが、兄貴の言うことにだけは逆らわない。そんな単純な性格の中にも愛嬌があり、本場中国では孫悟空と一、二を争う人気者。だが、天下にその名を轟かせ、蜀に燕人張飛ありと言わしめたが、最期はあまりにもあっけなく、関羽の仇討ちの前夜に、厳しくしすぎた部下に寝首をかかれてしまった。


姓名:馬超(ばちょう) 字:孟起(もうき)  英読 Ma Chau 生死年:176〜222
出身地:右扶風郡茂陵県 役職:督軍従事→驃騎将軍
所属:馬騰→張魯→蜀
能力値:武:99 知:43 統:86 政:31 魅:70

説明文:
父親の馬騰は、北方の騎馬民族である姜人との間に生まれた。義に厚い男で、献帝からの密詔に応えて曹操暗殺の義盟に加わるが、バレて、偽りの書状で都へ呼び出され、馬超の弟の馬休・馬鉄とともに殺されてしまった。馬超は西涼で留守を守っていたため難を逃れたが、怒って二十万の兵を起こし、義兄弟である韓遂と協力し次々と曹操軍を破るが、「離間の計」にかかり、韓遂は曹操に下る。従弟の馬岱とともに兵を立て直し、再び長安へ攻め込むが、今度は夏候淵に阻まれ、その上目の前で妻子まで殺されてしまう。その後、張魯のもとにいたが、李恢の勧めで劉備に降り、漢中攻略の際に大功を立て、五虎将の一人となった。だが、異民族の多い地域に任じられるとそのまま物語から姿を消し、正史によると二二二年、四七歳で病死している。一族を皆殺しにされ、天涯孤独に戦った男、その堂々とした姿を人々は”錦馬超”と呼んで讃えた。


姓名:黄忠(こうちゅう) 字:漢升(かんしょう) 生死年:?〜220
出身地:荊州南陽郡 役職:中郎将→征西将軍→後将軍
所属:劉表→魏→蜀
能力値:武:97 知:67 統:93 政:64 魅:88

説明文:
荊州の劉表に中郎将に任命され、その甥の劉磐と共に長沙の役人を務めていた。劉表の死後、荊州が曹操の支配下におかれると仮にヒ将軍に任命され、もとの任務のまま長沙の太守韓玄に仕えた。
劉備軍の関羽が攻め入ってきた際戦ったが互角であったという。この時すでに60歳近かった。翌日の一騎打ちでは馬が転倒したが、ここで殺すのは卑怯だと感じた関羽に見逃された。
その翌日は得意の弓で戦ったが、その際関羽に恩を感じていた黄忠はわざと関羽の兜に矢を当てて見せ、自分の弓の腕を知らせて恩返しをした。
ところがこれを内通と見た韓玄に捕らえられ、処刑される寸前に魏延に助けられて劉備の配下となった。劉備入蜀の際には先鋒を務め、益州の平定の際討虜将軍に任命された。
また、魏の名将夏侯淵を斬るなど大活躍した定軍山の戦いで征西将軍に昇進した。その後、漢中王となった劉備に関内侯の爵位を授かった。
が、その翌年関羽の弔い合戦の時の劉備の「関興、張ホウら若者に期待する」発言に立腹し、たった5,6騎で呉軍に攻め入り、矢を背に受けて息を引き取った。


姓名:徐庶(じょしょ) 字:元直(げんちょく)  生死年:?〜?
出身地:穎川郡 役職:右中郎将→御史中丞
所属:蜀→魏
能力値:武:67 知:96 統:87 政:88 魅:84

説明文:
義に厚い男で、若い頃は学問よりも剣術を好んだ。ある日友人のために人を斬り、逃亡の身となる。以後は“単福”を名を変え、学問を志した。司馬徽の助言で劉備と知り合い、『この馬は凶馬・的廬といい、乗る者に災いを及ぼします、敵に与えて厄を落としてからお乗り下さい。』と進言したが、劉備は『人を陥れるような事を勧める者は要らぬ!』と一喝され、その仁徳に感服し、心から仕えようと決めた。しかしその後、彼の母親を人質に取った曹操に、程いくの偽手紙で呼び出され、諸葛亮を推薦し、泣く泣く劉備のもとを去った。息子の行為を恥じて母親は自殺し、騙されたことを知った徐庶は以後、曹操のために一計も献じることはなかった。


姓名:関興(かんこう) 字:安国(あんこく)   生死年:?〜?
出身地:不明 役職:侍中・中監軍
所属:
能力値:武:86 知:70 統:85 政:50 魅:72

説明文:
関羽の実子で次男である。まだ幼い頃からその武勇によって高い評価を受けており、諸葛亮にも認められていた。のちに、呉の呂蒙によって殺された父関羽の仇を討つために、張飛の息子張ホウと共に劉備の呉の討伐に参戦した。夷陵の戦いでは老将、黄忠の危機を救い、また諸葛亮の行った第一次、第二次等の北伐でも果敢に戦い、張コウなどの名将も討ち取った。演義には、呉の討伐の際に張ホウと先陣を争って劉備に咎められ、義兄弟の契りを結んだ、とある。しかし、惜しくも諸葛亮と同年の234年に病没した。


姓名:魏延(ぎえん) 字:文長(ぶんちょう)   生死年:?〜234
出身地:義陽郡  役職:牙門将軍→前軍師・征西大将軍・仮節
所属:劉表→蜀
能力値:武:92 知:58 統:80 政:36 魅:50

説明文:
荊州太守・劉表の配下であったが、劉表没後、荊州が劉度、趙範、金旋、韓玄の四つに国が割れた際、韓玄の配下になる。後に劉備が荊州平定に乗り出した際、功労者の黄忠を討とうとした韓玄に憤りを感じ、謀反を起こし韓玄を討ち、劉備に投降した。黄忠とともに劉備と孔明に謁見した際、孔明は「魏延には反骨の相が見られます。後々、災いを起こすでしょう。投降を許さず、斬首にすべきです」と劉備に進言するが、劉備は「投降した者を斬るは不忠の者がすることだ」と孔明の意見を取り入れなかった。魏延は初め、一部隊長だったが、数々の戦功を挙げて牙門将軍に任命された。また、劉備が益州を治め、漢中王になり、首都を成都にした際、漢中太守に任命され、劉備が帝位に就くと鎮北将軍・都亭侯に昇進した。この頃から、魏延に慢心が見え隠れし始める。魏延は、孔明に従い出陣する度に、いつも一万の兵を要求し、孔明と別進路で魏軍を攻撃したいと願っていたが、孔明が許さなかった為、不満を抱いていた。魏延は人並み以上に誇り高く、野望多き性格であったが、劉備、孔明が健在のときは大人しく命令に従った。しかし劉備、孔明死後、溜まっていた不満を爆発させた。晩年、孔明は「私が死ねば、おそらく魏延は問題を起こすであろう」と予言し、楊儀、馬岱らに反乱予防策を授けていた。その後、孔明が死ぬと、魏延は長史・楊儀の命に反して不穏な行動をとるに至った。「丞相が亡くなろうとも、わしがおる。わし自ら指揮をとり、魏を討ち滅ぼしてやるから、撤退などする必要はない」といい、孔明の遺言を守らず、独自の行動をとり、成都には楊儀が反逆を企てたと虚偽の報告をし、蜀の宮殿を混乱させた。成都へ撤退する楊儀の部隊を阻止しようと先回りをした魏延は桟道を焼き払い、楊儀部隊を阻もうとしたが、孔明の密命で配下に入っていた馬岱に首を討たれた。三国志『魏延伝』の注によれば、魏延と不仲であった楊儀が、魏延のやることなすこと、ちくいち孔明に告げ口したり、魏延が軍勢を引き連れ、魏に降伏するという噂を流したりして、彼を窮地に追いやったからで、魏延には反乱を起こす意志はなかったという説も残されている。


姓名:法正(ほうせい) 字:考直(こうちょく)   生死年:176〜220
出身地:扶風郡 役職:新都令→蜀郡太守→尚書令
所属:劉璋→蜀
能力値:武:45 知:84 統:74 政:87 魅:80

説明文:
字は孝直。劉璋の部下であったがこれを裏切り、劉備を迎え入れる。軍略に秀で、謀臣に枯渇する劉備陣営において必要不可欠な人材であった。また劉備のお気に入りで、自身の軍事的才能を過信する劉備が、法正の言葉には素直に従い、なおかつその策も外れることはなかった為に一層重宝された。一方で、自分を中傷した者を殺害するなど、器の小さい人物でもあった。品性を欠き、陣営内で不評であったが、彼の知謀、及びその地位ゆえに諸葛亮さえもその悪行に口出ししなかった。法正は蜀の建国前に45歳で死亡、劉備は何日間も彼を悼んで涙を流したという。翌年、関羽を失い冷静さを欠いた劉備は夷陵にて陸遜に大敗、その翌年に白帝城において死亡した。この報を聞いた諸葛亮は亡き法正を希求したという。法正はいい意味でも悪い意味でも、キレた人物だった。


姓名:呉懿(ごい) 字:子遠(しえん)   生死年:?〜237
出身地:陳留郡 役職:中郎将→左将軍→車騎将軍・仮節
所属:劉璋→蜀
能力値:武:76 知:74 統:79 政:79 魅:75

説明文:
字は子遠 劉焉に従って蜀に入ったので出身が陳留なのも納得できる。劉備の蜀攻めの際に降伏、諸葛亮の北伐にも参加したが三国志演義での出番が少ないのは地味な勲功しか上げていないだろうが、彼の存在は重要であっただろう、その証拠に諸葛亮没後は最前線の漢中太守になる。
>正史によると「骨っぽい男で、博愛の心を持ち、弱軍を率いて強軍を制圧し、危機に陥ることがなかった。」そうだ、やはり蜀になくてはならない男のようだ。


姓名:ほう統(ほうとう) 字:子元(しげん) 英読 Pang Tung 生死年:179〜214
出身地:襄陽郡 役職:功曹→冶中従事→軍師中郎将
所属:呉→蜀
能力値:武:62 知:98 統:90 政:86 魅:83

説明文:
字は士元、襄陽の出身。若い頃は彼の才能に気づく者はいなかったが、人物鑑定で知られた司馬徽に見出された。「臥龍」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛」と称えられた程の人物。演義では呉の周瑜に協力して、赤壁の戦いで曹操を連環の計に陥れている。後に魯粛が彼を孫権に推挙したが、容貌が醜悪だったため、召抱えられなかった。劉備に仕えた時も、初め軽んじられたが、諸葛亮と魯粛のとりなしで、劉備の軍師となった。劉備の征蜀に従軍し、参軍としてその才能を発揮した。劉璋を攻撃するとき、劉備に三つの選択肢を提示したことは有名である。しかし蜀を制覇する前に流れ矢に当たり、戦死した。演義では落鳳坡で劉備と間違われ射殺された。劉備は彼の死を涙を流して悼んだという。優れた軍事の才に加え、冷静沈着さを備えた後の蜀に欠かせない人物であったことを思えば、あまりに惜しまれる死である。


姓名:姜維(きょうい) 字:伯約(はくやく)  生死年:202〜264
出身地:天水郡キ県 役職:上計掾→征西将軍→大将軍
所属:魏→蜀→魏
能力値:武:82 知:90 統:79 政:86 魅:78

説明文:
幼いころ父が戦死したため母1人に育てられ、親孝行で知られていた。魏の中郎将で、郡太守馬遵のもとにいたが武勇を聞きつけた諸葛孔明の策略にはまり、蜀に降った。
孔明亡き後は9度にわたる北伐を行ったが、全くといっていいほど戦果はなかった。また、内政には手をつけなかったため宦官の勢力が強まった。
魏の攻撃の際も剣閣に立てこもって抵抗を続けたが、結局劉禅の降伏によって蜀は滅びた。その後魏の将軍鐘会を誘って謀反を企てるが、失敗に終わり魏兵によって斬られてしまった。


姓名:王平(おうへい) 字:子均(しきん)   生死年:?〜248
出身地:益州巴西郡宕渠県 役職:校尉→裨将軍→鎮北大将軍
所属:魏→蜀
能力値:武:75 知:67 統:80 政:55 魅:78

説明文:
魏の将軍徐晃の下にいたが、劉備に降る。街亭では山上に布陣しようとする馬謖を諌めるが聞き入れられなかった。北伐の際は張翼とともに奮戦、木牛・流馬を使って見事に勝利を収める。王平は一説には漢中の少数民族の出身ともいわれ、陣中で育ったために文字が十文字ほどしか書けなかったから、命令書は口述で。だが、事態の本質を正確に把握する能力は十分だったという。諸葛亮死後は漢中を守っていたが、二四八年、病没。


姓名:関平(かんぺい)   生死年:?〜219
出身地:不明 役職:不明
所属:
能力値:武:81 知:72 統:78 政:55 魅:74

説明文:
関定の次男だった関平は、家に関羽一行が立ち寄ったとき、同姓のよしみで養子に迎えられた。そのとき関平は十八歳。その後は父の側近として荊州を守る。樊城攻めでは、戦いは有利に運んでいたが、傅士仁と糜芳の裏切りによって形勢は逆転、麦城に敗走し、絶体絶命のピンチ。関羽とともに呉軍に突入し捕虜となり、父子ともども処刑された。一騎打ちでは魏将ホウ徳と互角に渡り合うほどで、後の人々は、関羽を絵に描くとき、必ず周倉とともに関平を側に描くという。


姓名:馬岱(ばたい)字:不明   生死年:?〜?
出身地:右扶風郡茂陵県 役職:平北将軍
所属:馬謄→張魯→蜀
能力値:武:77 知:50 統:77 政:42 魅:70

説明文:建安十六年(211年)、馬騰が許都で曹操に殺害されたとき、独り生き残り馬超に馬騰の死を知らせる。その後、馬超とともに関中で奮戦するも、馬超がカクの「離間の計」にかかり、韓遂が魏に走った為、敗戦し、張魯の元に身を寄せるが、張魯との仲が険悪になり、馬超とともに劉備に降る。孔明の南方戦では、孟カクを何度も捕え「七縦七禽」の立役者となった。孔明死後、反乱を起こした魏延の配下になったふりをし、魏延が魏に降らぬよう監視をしていた。魏延が漢に押し寄せた際、「俺を殺せる奴などおるものか!」叫んだ時、馬岱は魏延の首を打ち、反乱を防いだ。生前、孔明は馬岱の誠実さを信頼し「わしが死ねば、おそく魏延は謀反をおこすであろう。もし魏延が『わしを殺せるものか』と叫べば、その時魏延の首を打って、蜀を助けてやってくれ」と密命を与えていたのだ。孔明は死に臨んで「馬岱は忠義の士。決して粗末に扱うでない」と遺言を残したという。最後まで、蜀に忠誠を尽くした忠義の士であったといえよう。


姓名:馬良(ばりょう) 字:季常(きじょう)   生死年:187〜222
出身地:襄陽郡宜城県 役職:従事→侍中
所属:
能力値:武:41 知:85 統:72 政:94 魅:87

説明文:
若い頃から眉が白かったことから“白眉”とあだ名され、後年は秀才中の秀才のことを指す言葉となった。名門・馬家には五人の子どもがあり、5人皆、字の名に“常”という文字を持っていた。長男の馬良は中でも秀才の誉れが高く、『馬氏の五常、白眉が最も良し』と人々は言った。劉備が蜀へ入ると、関羽の補佐役として荊州に留まり、樊城攻めでは、援軍を求めに成都へ走ったが、間に合わなかった。呉遠征のときは、劉備に適当な勝利を収めてから和睦するよう勧めたが聞き入れられなかった。最期については、はっきりとした記録はなく、正史によると南蛮の異民族鎮圧に向かう途中、夷陵で殺されたとされている。


姓名:馬謖(ばしょく) 字:幼常(ようじょう)   生死年:190〜228
出身地:襄陽郡宜城県 役職:荊州従事→太守
所属:
能力値:武:85 知:69 統:72 政:68 魅:69

説明文:
襄陽郡宜城県出身。字は幼常。馬家の五人兄弟の中で、末子にあたるらしい。諸葛亮に気に入られていたようで、常に幕僚として行動をともにしていた。北伐の際、諸葛亮は、彼を長安攻略のための重要拠点にあたる街亭守備の指揮官に起用した。しかし、『街道を守るため高地に陣を敷かず、麓を固めるように』という諸葛亮の命令に添わず、独断で山上に陣を敷いたため、司馬懿率いる魏軍に大敗した。諸葛亮は、彼の才能を惜しんだが、軍法に照らし、涙を流しながらも馬謖を処刑したという。一時は諸葛亮の後継者にと見られていたようだが、自らの才に溺れ、結果、前途を棒に振ってしまった。


姓名:伊籍(いせき) 字:機伯(きはく)   生死年:?〜?
出身地:山陽郡 役職:左将軍従事中郎→昭文将軍
所属:劉表→蜀
能力値:武:22 知:83 統:57 政:84 魅:72

説明文:
もともと荊州の劉表に仕えていた。劉備も劉表のもとに身を寄せていたころから、伊籍はよく劉備のところへ通い、頼りにしていたという。
劉備の馬が的ろと呼ばれる凶馬であると指摘したのは彼であった。劉表亡き後は、そのまま劉備に仕えた。また、赤壁の戦い終了後、馬良、馬ショクなどの優れた人材の推薦も行った。
益州が平定された際、左将軍従事中郎に任命された。そののち呉に使者として遣わされた際には彼を言い負かそうとした孫権を反対にやり込め、感服させた。
劉備入蜀の際昭文将軍に昇進し、諸葛亮、法正らと共に法律『蜀科』を編纂した。


姓名:簡雍(かんよう) 字:憲和(けんわ/けんか)   生死年:?〜?
出身地:タク郡タク県 役職:従事中将→昭徳将軍
所属:
能力値:武:39 知:70 統:39 政:76 魅:77

説明文:
劉備の挙兵時より付き従う。桃園結義は、劉備・関羽・張飛の三人としているのが主だが、簡雍も加わり四人だったという話もある。以来劉備とは、幕僚として、というよりは軽口を叩き合う友人のようだった。豪放な人柄で、軍議の席で諸葛亮の前でも、ただ一人長椅子に寝そべって冗談を言って笑っていた。蜀平定後、劉備は禁酒令を出し、酒造りの道具を持っている者まで処罰しようとした。そこで簡雍は、街を歩いている時に、若い男女を指差し、『あの者らは姦淫するので逮捕しよう。』と言った。劉備がなぜかと問うと、『二人は姦淫の道具を持っています。』を言ったので、劉備は笑って、酒造りの道具を所持する事を許可したという。


姓名:李厳(りげん) 字:正方(せいほう)   生死年:?〜234
出身地:南陽郡 役職:郡官吏→驃騎将軍
所属:
能力値:武:86 知:80 統:76 政:44 魅:72

説明文:
もともと荊州の劉表のもとにいたが、曹操の侵略により劉ショウのもとへ逃れた。その後劉備が侵攻してきた際綿竹の守備にあたったが、孔明の策にはまって劉備に降伏した。それからはどんどん出世し、瓢騎将軍になった際、李平と改名した。のちに劉備の死に際に孔明とともに後事を託されるなど非常に信頼されていた。が、後年、孔明の北伐の際、大雨で兵糧の輸送ができなかったため孔明に偽りの内容の手紙を出し、驚いて帰国した孔明に責任逃れのため、「なぜ戻ったのか?」と問い詰め孔明の逆鱗に触れ、平民に落とされた。が、のちに孔明の訃報を聞くと失望し、病にかかり没したという。


姓名:び竺(びじく) 字:子仲(しちゅう)   生死年:?〜220?
出身地:東海郡 役職:別駕従事→安漢将軍
所属:陶謙→蜀
能力値:武:40 知:65 統:35 政:78 魅:80

説明文:徐州の太守・陶謙の配下であったが、劉備の徐州入りの際、劉備と知り合い、それ以後、劉備の行く所に付き従った。自分はもとより弟のビ芳も従わせ、妹を劉備の側室にするなど、劉備の人間性に惚れていたという。徐州攻防戦に敗北した劉備に従い、劉備がエン紹の客分になったときも、ともに行動した。その後、劉表を頼って落ち延び、長坂ハの戦いの際、生死の境を彷徨った。彼は、司馬キに「白面の一書生」と酷評されるなど、幕僚としてよりも側近としての
役割が多かった?蜀を取った際、劉備に皇帝になるよう薦めた。劉備の蜀建国はビ竺の苦労が報われた時であった。関羽が荊州で打首になった際、弟、ビ芳が呉に寝返り、彼は責任を感じたが、劉備がビ竺に対し、罪を問わなかったが、それを負担に感じ怏々として、楽しまなかった。その後、病を発し一年後に死んだ


姓名:張苞(ちょうほう)字:不明   生死年:?〜?
出身地:不明 役職:不明
所属:
能力値:武:82 知:47 統:63 政:78 魅:49

説明文:張飛の血を受け継いだ勇将。関羽の弔い合戦に先立って張飛が、配下に暗殺された。悲しみに暮れる劉備のもとに父・張飛が愛用していた蛇矛を手にした張苞が駆けつける。張飛の再来を思わせるその武者ぶりに劉備は大いに喜び、関羽の息子・関興と義兄弟の契りを結ばせる。その後、二人は蜀軍の先鋒としてよく活躍し、数々の戦功を挙げた。張苞は夷陵の戦いで黄忠を救い、同時に武将を討ち取った。初陣から父の名を辱めぬ立派な働きぶりで劉備を喜ばせた。孔明の北伐にも参戦したが、張苞にとってこれが最後の戦いとなってしまった。逃げる魏軍を追撃していた時、馬もろとも谷底へ落下し、負傷して成都に帰還した。傷の治療に余念がなかったが、不幸にも破傷風を併発、数ヶ月後に死亡した。将来を期待された武将であったが、活動時期はきわめて短かった。弓の腕前も確かで、旗の先に付いた小さな的を射抜くほどであった。また第一線の指揮官としても一流であった。孔明は関興、張苞に大いなる期待を寄せていたため、早すぎた死に大きな衝撃を受けた。関興や張苞といい蜀の中心戦力となるべき将が、次々と早死にしてしまうあたり、蜀の前途に暗い影をなげた。


姓名:孫乾(そんけん) 字:公祐(こうゆう)   生死年:?〜?
出身地:北海郡 役職:従事→従事中郎→秉忠将軍
所属:
能力値:武:41 知:70 統:33 政:74 魅:90

説明文:「そんかん」。ではなく「そんけん」と読んで、わざわざ呉の親子とごっちゃになりやすくなっているのは不思議なルール。 字、公裕。北海の人。劉備の徐州時代から加わったスタッフだというのは、正史でも演義でも変わらない所だが、正史では劉備の徐州刺史就任の際に推挙された補佐役という、いかにも役所然とした登場の仕方に対して、演義では徐州刺史陶謙がその臨終の場に居合わせた劉備に推挙するという若干ドラマチックな登場に書き換えられてはいる。いずれにしても地味な登場である。周知のように、地味なのは登場シーンだけではなく、劉備陣営参加後の彼の仕事はまさに地味の一言である。演義・正史ごっちゃに並べ立てると、連戦連敗の劉備をかくまって貰うためえん紹に書を届けたり、曹操にとっつかまってる関羽と劉備の間をこっそり連絡したり、またしても連戦連敗の主君を今度は劉表にかくまわせたり、新参者孔明の活躍に妬くことなくその戦勝を祝いたてたり、ほう統と張飛のケンカを仲裁したり、ヤケっパチになって宗教団体に仕えてた馬超に降伏を勧めたり・・・・
 地味だ。地味だが重要だ。彼が良く並べ立てられるビジクや簡ヨウらの活躍も重要だが、劉備とその一党の生き死にに関わるピンチを凌いできたのは、正しくこの人の渉外能力なのである。まさに「縁の下の力持ち」。誰が呼んだか「お使い孫乾」。後世の、そんな軽い愛称も、実は彼の仕事に対する高評価を誰もが知っているからこその「愛」称なのだ。 蜀建国後、簡ヨウの次、ビジクと同位の将に据えられ、蜀の重臣としてその一生を終えた。


姓名:び芳(びほう) 字:子方(しほう)   生死年:?〜?
出身地:東海郡 役職:彭城相→南郡太守
所属:陶謙→蜀→呉
能力値:武:66 知25 統:60 政:19 魅:22

説明文:糜芳は陶謙死後、兄や妹と共に劉備に従った。兄は文官であったが、糜芳は戦闘にもよく参加した。城を守ったり、敗残兵を追い討ちしたりといった役目が多く、武将としては下級武将であった。その後関羽のハン城攻めでは、先鋒を務めるが、出陣前夜、陣を出火させてしまい、兵糧や武器を焼いてしまう。怒った関羽は糜芳と同僚のフ士仁の先鋒の印綬を取り上げ、棒刑にしたうえ、南郡の留守居役に格下げした。関羽が出陣した後、呉の呂蒙が荊州を占領し、南郡に迫った際、フ士仁は降伏を主張したが、糜芳は決心がつかない。そこへ関羽の使者が食糧を十万石を送れと要求してきた。呉軍が迫っている急場にとても用意できるものではなかった。フ士仁は使者を斬り捨て、驚く糜芳を尻目に呉に降ったため、糜芳も呉に降った。その後、関羽は斬首される。劉備は関羽の仇討ちに立ち上がり大軍を率いて呉に攻め入った。糜芳とフ士仁は迷った末、呉の先鋒・馬忠の寝首をかき、馬忠の首を手土産に蜀に投降し、再度復帰を願ったが、かえって劉備の怒りを買い、関羽の息子・関興に殺された。糜芳自体は呉に降る気はなかったようだが、関羽の使者をフ士仁が殺した為、罪を恐れ、仕方なく呉に降ったようだ。


姓名:孟達(もうたつ) 字:子度(しど)   生死年:?〜228
出身地:扶風郡 役職:宜都太守→新城太守
所属:劉璋→蜀→魏
能力値:武:72 知:71 統:70 政:53 魅:47

説明文:元は劉璋の配下だったが、冷遇され張松、法正らと劉備の益州入りを手伝う。その後は蜀で働くがその仕事振りはあまりよくなく、また賄賂を許したため、公平さを重んじた関羽に叱責された。その後、関羽が陸遜に追われ援軍を求めてきたときもそれを無視し関羽を裏切り魏に寝返った。その後、諸葛亮の第二次北伐の際に諸葛亮から誘いを受け再び蜀に寝返ろうとしたが司馬懿の策(変え馬を用意する事によって通常より早く孟達のいる城についた)によってそれを防がれ馬上で槍を刺されて絶命した。(この時孟達は自分によってくる兵を集めるため城の門を開けていた)(直接の諸葛亮第二次北伐のの敗因とはならなかったが、それによって司馬懿は魏の中で唯一諸葛亮にも劣らない知の持ち主といわれた。)孟達はまさに裏切りの達人であった。


姓名:孟獲(もうかく)字:不明   生死年:?〜?
出身地:不明 役職:宜首領→御史中丞
所属:南蛮→蜀
能力値:武:90 知:42 統:81 政:22 魅:57

説明文:劉備死後、反乱を起こした南蛮王の孟獲は武勇一辺倒で、知略を駆使した戦いにはめっぽう弱く、南蛮を平定すべく攻めてきた孔明と蜀軍の敵ではなく、瞬く間に捕らわれる。孔明は降伏を勧告をするが、意地っ張りな性格の上「戦って敗れた」という実感がなかった為、耳を貸さず反論するばかり。孔明は「心服させなければ真の平定ならず」という信念に基づき、孟獲を解き放つ。以後、孟獲はさまざまな手段で蜀軍と戦う。南蛮特有の風土を武器に戦い、近隣の大王(将軍のようなもの)にも援軍を求め戦うが、ことごとく孔明に敗北。そのたび孔明の前に引き出される。孔明は気のすむまで戦わせようと考え、彼を捕える度に解き放つ。だが、流石の孟獲も七度目の敗北で観念。ゴツ突骨率いる藤甲軍が孔明の策略で全員焼き殺され、孟獲も捕らわれた。一族と共に与えられた酒を飲みながら「孔明には勝てん。仲間もおらず戦う事も出来ん。人生で最後の酒だ」と死を覚悟していた。しかし、蜀の兵が「孔明様は藤甲軍を皆殺しにしたことを悔いて、今あなた方に会う事に負い目に感じています。今日の所はお引取りくださり、今一度、気持ちよく戦ってくださいとの事です」という孔明の言葉を告げた。それを聞いた孟獲はハラハラと涙を流し「七度負けて、七度許すという話は聞いたことが無い。自分が愚かだった。今までの罪を許して頂きたい」と孔明の前にまかり出て「南蛮はこれ以後、二度と蜀には背きません」と誓いを立てた。これが世にいう『七縦七禽』である。以後、孔明を『温情の徳』として、孔明を『慈父』と呼び祭った。祭祀は孔明死後も続けられたという。


姓名:呉蘭(ごらん)    生死年:?〜218
出身地:不明 役職:将軍
所属:
能力値:武:88 知:44 統:82 政:43 魅:55

説明文:劉章の配下。建安十七年(212年)、劉備の入蜀に対抗するべく、ラク城を守る呉懿の副将として激戦を繰り返したが、劉備・黄忠・魏延・張飛に攻め立てられ、混戦の中、雷同と共に劉備軍に捕らわれた。劉備の『蜀を今よりもより良い国にしたい』という思想に心打たれ、劉備の傘下に加わる。劉備の入蜀後、曹操との漢中争奪戦で活躍したが、曹操の三男・曹彰が援軍として蜀軍に攻め寄った際、これを食い止めようと突撃し、曹彰と一騎討ちしたが、殺された。


姓名:雷銅(らいどう)    生死年:?〜218
出身地:不明 役職:将軍
所属:
能力値:武:98 知:85 統:96 政:80 魅:95

説明文:劉章の配下。建安十七年(212年)、劉備の入蜀に対抗するべく、ラク城を守る呉懿の副将として激戦を繰り返したが、劉備・黄忠・魏延・張飛に攻め立てられ、混戦の中、呉蘭と共に劉備軍に捕らわれた。劉備の『蜀を今よりもより良い国にしたい』という思想に心打たれ、劉備の傘下に加わる。劉備の入蜀後は、蜀の臣として、張飛のもとで働いた。漢中での魏軍との戦いで張飛に伏兵の策を進言して勝利の基をつくったが、魏の勇将・張コウに討ち取られた。


姓名:呉班(ごはん) 字:元雄(げんゆう)   生死年:?〜?
出身地:陳留郡 役職:領軍→督後部後将軍→驃騎将軍
所属:
能力値:武:75 知:47 統:70 政:42 魅:63

説明文:呉懿の親族。劉彰の配下であったが、劉備の入蜀に際し、劉備に降伏した。劉備に臣従後は、張飛の補佐官として主に活躍した。張飛が部下に暗殺されると、劉備とともに仇討ちのために呉に侵攻、先鋒として勇戦奮戦する。この戦は緒戦は快進撃を続けたが、夷陵で陸遜の火計にかかって大敗。成都へ退却した。劉備の死後は、ヒョウ騎将軍として孔明に従い、北伐に参加し活躍したが、第二次北伐の撤退の際、魏の軍勢の矢を受けて死亡した。


姓名:厳顔(げんがん)    生死年:?〜?
出身地:不明 役職:巴郡太守
所属:劉璋→蜀
能力値:武:86 知:72 統:87 政:68 魅:78

説明文:劉璋の武将であったが、劉備が蜀を得ようとした時、万人の敵と言われる張飛と対決。しかし、張飛に捕まり、張飛の言葉を聞き、劉備軍に降伏。その後、老将黄忠と共に、定軍山の戦い、夷陵の戦いなど数々の戦いに参戦し、数々の手柄をたてた。黄忠、厳顔は、蜀の二大老将として活躍した。


姓名:費詩(ひし) 字:公挙(こうきょ)   生死年:?〜?
出身地:南安郡 役職:諫議大夫
所属:劉璋→蜀
能力値:武:30 知:54 統:19 政:64 魅:56

説明文:準備中


姓名:張翼(ちょうよく) 字:伯恭(はくきょう)   生死年:?〜264
出身地:武陽県 役職:書左→尚書→左車騎将軍
所属:
能力値:武:73 知:61 統:79 政:55 魅:69

説明文:元は劉章配下であったが、劉備入蜀後、帰順した。劉備に降ってからは、重用された。劉備の呉への出兵、孔明の南征、北伐などに従った。孔明の策略により、キョウ維を王平と共に挟み撃ちにして追い詰めたり、街亭の敗戦後、剣閣の山道を整備し、蜀軍の撤退を援護。第二次北伐では、孔明の命を受け、魏軍を奇襲するなど、常に孔明を信じて戦い、実直さには定評があった。孔明は遺言で忠義の士の一人として張翼を挙げている。孔明死後、キョウ維の北伐を助けた。第二次北伐ではリョウ化と共に先鋒を務め、活躍した。第三次北伐では「蜀は小国。民力を浪費せず、要害を守り、国土を保全するのが良策」とキョウ維を諌めたが、キョウ維の決意が固いことを知ると「敵に警戒のいとまを与えず、一気に出撃しよう」と進言した。祁山での戦いでトウガイに囲まれ、あわやというところでキョウ維に助けられ、勇気百倍して、トウガイを一時追い詰める奮戦をした。蜀滅亡後、キョウ維と共に魏に降ったが、鍾会・キョウ維の反乱に参加。魏軍を相手に奮戦したが、戦死した。蜀後期の武将としては、抜群の力量の持ち主であった。


姓名:黄権(こうけん) 字:公衡(こうこう)   生死年:?〜240
出身地:巴西郡 役職:主簿→鎮北将軍→車騎将軍
所属:劉璋→蜀→魏
能力値:武:45 知:85 統:71 政:71 魅:66

説明文:元・劉章配下で劉備の益州入りを強硬に反対し、幾度となく劉章を諌めた。劉備入蜀後は隠遁したが、劉備に乞われて劉備の臣になり、偏将軍に任命される。章武元年(221年)、孔明らとともに漢中王・劉備に、蜀・皇帝の位に就くように奨めた。劉備が関羽の弔い合戦で呉を攻めた際、水軍隊の参軍として出陣、指揮したが、夷陵で陸上部隊が大敗していたため、退路を絶たれ、やむなく呉に降伏。呉降伏後、黄権は魏に送られ、魏の臣として仕えたが、劉備や孔明の不利となるような策は進言せず、内政関係の進言をするなど、降伏後も劉備への恩を忘れることはなかったという。


姓名:董和(とうわ) 字:幼宰(ようさい)   生死年:?〜?
出身地:南郡枝江県 役職:江原県長→掌軍中郎将
所属:劉璋→蜀
能力値:武:70 知:56 統:52 政:70 魅:53

説明文:準備中


姓名:りょう化(りょうか) 字:元倹(げんけん)   生死年:?〜264
出身地:襄陽郡 役職:主簿→右車騎将軍・仮節
所属:蜀→呉→蜀
能力値:武:63 知:60 統:61 政:47 魅:65

説明文:またの名をリョウ惇、リョウ淳字を元倹襄陽の人で黄巾賊の残党
荊州にいた頃の劉備に投降し以後関羽の配下になる
関羽の死後、呉に居たが蜀に戻りたい一心で「リョウ化は死んだ」と噂を流し
母親と脱出、関羽の弔い合戦に行く劉備に合流
後に右車騎将軍に昇進。劉禅の降伏後洛陽に強制移住させられる途中病死
病死しても信じてもらえなかった悲しい人
黄巾の乱から蜀滅亡までいた何歳なのかわからない


姓名:張達(ちょうたつ)  生死年:?〜?
出身地:不明 役職:不明
所属:蜀→呉
能力値:武:34 知:32 統:41 政:35 魅:24

説明文:蜀の末将。范彊とともに張飛に仕えていたが、具体的なポジションについては正史も演義も知らせるところはない。正史に曰く、先主劉備が張飛をよく諫めたという。「君子ばかり敬し、小人を哀れまないお前は、刑罰によって部下を殺しすぎるし、毎日のように兵を鞭打っている。しかも、そうした者たちを側で使うのは、いつか災いとなる」と。演義に言う、関羽の弔い合戦に際して兵数分の白装束を二名に調達させたが期日に間に合わず、懲罰を恐れた張達・は張飛の寝首をかいて呉に走ったという。演義の「白装束」のエピソードは、ヒーロー張飛の死を演出するための創作であろうから、正史のようにほとんど予告無く出征中に部下の反逆で死んだ張飛は、よほど兵からの人望がなかったのだろう。両名とも、桃園の義弟二人を失った劉備の復讐を恐れた孫権に蜀に送り返され、張飛の子、張包に斬られている。因みに、長江岸の張飛廟には、張飛の名場面が蝋人形で再現されているが、最後の暗殺のシーンでは、今しも刺されんとする寝床の張飛と、緊張の表情で幔幕に隠れる張達・范彊の人形が、訪れる観光客のすぐ近くに見ることが出来る。凡百の人間が歴史に名を残したくば有名人を暗殺するのが最も簡単な方法であるという典型的な見本の二人である。


姓名:張南(ちょうなん)  字:文進(ぶんしん)  生死年:?〜222
出身地:不明 役職:将軍
所属:
能力値:武:53 知:40 統:46 政:42 魅:49

説明文:劉備配下の武官。劉備入蜀後、劉備の配下となった。関羽の死に怒り狂った劉備が東征に乗り出した際、先鋒の将として従軍した。先鋒大将の呉班に夜襲を進言し、フウ習とともに呉陣に攻め込み、大いに孫桓軍を打ち破り、孫桓を夷陵まで退却させる功績を上げた。その勢いで夷陵まで攻め込んだが、呉の軍師・陸遜の火計により劉備軍の陣は大火災を起こし、大敗。張南は呉兵に囲まれた劉備を救出し、同僚のフトウに劉備を任せると、自分は呉軍を食い止めるべく突撃、乱戦の中、討ち取られた。この夷陵での大敗により蜀は多くの武将を失うことになり、白帝城に逃げ込んだ劉備は心労のあまり病気になってしまうのであった。曹操配下(元・ 袁紹配下)で赤壁の戦いで呉の将・周泰に討ち取られる同姓同名の将がいるが、無関係。


姓名:張嶷(ちょうぎょく)  字:伯岐(ぶんき)  生死年:?〜254
出身地:巴郡南充国 役職:功曹→都尉→盪冠将軍
所属:
能力値:武:73 知:67 統:59 政:72 魅:77

説明文:字は伯岐(はくき)。巴郡南充国の人。三国志ではまま見られる「正史」と「演義」とで扱いが大きく異なる人の一人。いずれの場合でも劉備入蜀後に姿を見せ始めるが、演義系三国志での彼は、孔明の遠征にくっついていっては、「あの山に陣取れ」なんて指図されたときくらいしか出番のないマイナー武将で、たまに出番・台詞があると思えば、あの祝融夫人にコテンパンにされてたりする弱将に描かれており、読み手に、大概二人ワンセットで扱われる張翼共々「ああ、蜀人材は層が薄くなったなあ」と実感させるのが仕事のような人。しかも「ぎょく」の字が読みにくいので、「相棒」張翼よりも更にマイナーだったりもして、切なさは倍増である。しかし、正史の彼は、こんな半端武将ではない。イヤむしろ、五虎将亡き後の蜀を良く支えた良将良吏なのである。貧家の出身で、出世のコネも無かった彼ではあったが、賊の襲撃に際し、県長逃亡後も孤軍奮闘、その夫人を救出したという一件で有名になり、歴史に姿を見せ始める。  
 孔明の南蛮行に従軍した際、なかなか蜀に帰順しようとしない越すい(山かんむりに雋)郡の太守に任命された彼は、現地の異民族を厚遇した上、もっとも強固に反抗していた捉馬族の長、魏狼を捕縛後に無条件で釈放、さらには漢の爵位まで与えて(と、正史にはあるが、孔明の委任を受けたとしても、彼に爵位を発する権限があったかどうかは疑わしい)その身分を保証した。この件が他諸族にも知れ、南方の人々は先を争って張ぎょくに帰順したという。
 かの「七縦七擒」。つまり孔明と孟獲の一連のエピソードの原型はここにあるので
ある。これらの功あって都尉に出世した張ぎょくは、孔明の北伐に参加。かしこでも綿竹あたりに出没する山賊を計略を以て掃討するなどの功績を挙げ、前線の将としては重鎮と呼べるだけの地位を獲得する。(ちなみに演義では、この時期に孔明の命で「顔面ペイントしつつ動物の形態模写しながら煙吹いて行軍」を実行。やはり功績を挙げている)孔明死後、「本当に薄く」なってしまった蜀の人材難から、病をおして姜維の魏征伐(張翼共々、この遠征には否定的であったというが、出征が決まった以上、暴走気味の姜維を放置しておけなかったのだろう)にも従軍したが、魏将徐質と交戦後陣没
した。
 張ぎょくが南蛮の任地を離れる際、いつまでもいつまでもその帰路を見送った辺境異民族の人々は、その死を聞くや大いに悲嘆し、季節の折々に彼を祀って、その霊を慰めたという。
 史実の彼は、特殊な土地勘と柔軟な外交センスを持ちあわせる地方官としては得がたい人材であり、また、戦場にあっては広い戦略眼と鋭い洞察とで着実に仕事をこなす良将であった。手駒の多くが「能力はあっても指示が必要」だった孔明にとって、その自律を信頼できる数少ない配下だったと推測される。


姓名:王伉(おうこう)  生死年:?〜?
出身地:蜀郡 役職:府丞→永昌太守
所属:
能力値:武:55 知:53 統:52 政:41 魅:62

説明文:蜀・永昌郡の太守。蜀の建興三年(225年)蛮王・孟獲の反乱に益州南部の太守たちも次々と呼応して反乱を起こしたが、王坑だけが反乱に加わらなかったため、反乱軍の攻撃を受け続けていた。敵は南蛮軍を後ろに控えた三郡の連合軍。どこまで守り通せるのかと弱気になっていたが、配下の呂凱に「ここは益州の門です。何があっても守り通さねばなりません」と励まされ、最後まで守り通す覚悟を決める。反乱を平定するため、蜀の丞相・孔明が自ら指揮し、三郡を平定し、王坑の永昌郡を解放した。孔明は反乱に加わらなかった王坑を忠義の士と称え、功績は大きなものとした。王坑は南蛮に詳しい呂凱を孔明に従わせ、自分は太守として永昌郡に留まった。


姓名:呂凱(りょがい) 字:季平(きへい)  生死年:?〜?
出身地:永昌郡不韋県 役職:五官掾功曹→雲南太守
所属:
能力値:武:43 知:67 統:30 政:75 魅:70

説明文:蜀の永昌郡の太守・王坑の功曹(功績記録係)。蜀の建興三年(225年)蛮王・孟獲の反乱に益州南部の太守たちも次々と呼応して反乱を起こしたが、呂凱は王坑を励まして反乱に加わらなかったため、反乱軍の攻撃を受けていた。反乱の報を受けた孔明は自ら南征を指揮して、諸郡を平定し、王坑の永昌郡を解放した。そのとき孔明は呂凱の功績は大きなものだとして褒め称えた。南蛮征伐に赴く孔明に呂凱は、南蛮の土地を詳しく描いた地図「平蛮指掌図」を渡した。孔明は喜んで受け取り、南蛮に詳しい呂凱を参謀の一人に加えて南征に出発した。


姓名:向寵(しょうちょう)  生死年:?〜240
出身地:不明 役職:牙門将→中部督
所属:
能力値:調査中

説明文:蜀の牙門将軍。演義においてはほとんど登場しないが、諸葛亮の有名な「出師の表」でその名がクローズアップされる。「軍中のことは、事の大小と無くことごとく彼に諮問してください」絶賛されて、蜀漢の北伐時に留守部隊として成都の守備を任される。劉備が大敗を喫した夷陵の戦でも彼の陣だけ無傷だった。ただ、この向寵については、正史でも演義でもほとんど記述が無く、謎が多いのもまた事実。三国志正史の蜀記・馬良伝の馬謖の章でわずかに「向朗の甥である」とだけの記述があり、文官だったのではないかという説もある。


姓名:馬忠(ばちゅう)  字:徳信(とくしん)  生死年:?〜249
出身地:巴西郡 役職:郡吏→鎮南将軍
所属:
能力値:武:69 知:52 統:78 政:31 魅:60

説明文:呉に同姓同名の将が見えるが無論別人。演義での馬忠は、張ギョク、張翼らと同様、劉備・五虎将亡きあとの蜀の人材難を示す「小粒」な将としての表記しかなく、しかもイ(さんずいに胃)水戦のの後は、何の説明もなく文中からその姿を消しているという、ある意味、最も実際の人格・実績を無視された将。正史に見える彼は登場からして派手である。夷陵戦に大敗した劉備の元に援軍を率いて現れ「黄権をうしなうも、我今馬忠を得たり」と大いに主君を喜ばせている。最も、その指揮官としての能力は、夷陵戦に帯同しなかった事実と、本来地方官であった彼を劉備が引き立てて将にしたというエピソードから察しても、さして高いモノとは推測できない(先主没後、従軍自体は増えているが)。しかし、行政担当上がりとしての実力は高く、蜀国内を良く統治したと正史は言う。分けても蜀南部の異民族慰撫に功が高く、彼が病死した後は言質の人々は泣いてその死を悼んだという(同じような記事は張ギョクにも見られるが、正直、両者がどのような位置関係、時間関係で南蛮統治をしていたのかは寡聞にして分からない(馬忠が張ギョクの上司?)。有識者のご助言を請いたい)。上を敬い、下を愛する名吏であり、かつまた対話好きの明るい性格で、苦しい台所事情の蜀末を物心両面で救ったムードメーカーであったろうと想像する。


姓名:尹黙(いんもく)  字:思潜(しせん)  生死年:?〜?
出身地:梓潼郡 役職:観学従事→太中大夫
所属:
能力値:武:20 知:72 統:23 政:90 魅:36

説明文:準備中


姓名:とう芝(とうし)  字:伯苗(はくびょう)  生死年:?〜251
出身地:義陽郡新野県 役職:広漢太守→車騎将軍
所属:劉璋→蜀
能力値:武:51 知:84 統:69 政:78 魅:93

説明文:蜀の官吏・戸部尚書。後漢創業二十八功臣の筆頭・とううの末裔。魏が五十万の大軍で蜀に侵攻してきたとき、孔明に抜擢され、蜀の使者として呉
の孫権のもとへ行き、孫権に脅されながらも、劉備の呉への侵攻以来、破綻していた両国の関係を見事に修復、同盟を結ぶ大功を果たした。同盟の使者として呉の孫権に謁見したとき、孫権から「魏を倒して蜀と呉で天下を二分したら、さぞ楽しいことであろうな」と言われたが、毅然とした態度で「天に二日なく、民に二主なし」と言い放ち、孫権を感心させた。


姓名:楊儀(ようぎ)  字:威公(いこう)  生死年:?〜235
出身地:襄陽郡 役職:主簿→尚書→長吏→中軍師
所属:
能力値:武:61 知:70 統:72 政:72 魅:56

説明文:孔明の北伐・漢中進出に際し長史に任命される。非常に有能な人物で、孔明をよく補佐し、前線と益州の連絡や補給の任を難なくこなした。孔明の死後、孔明の遺体が入った棺を守り、丞相代理として五丈原から撤退の指揮をとる。魏延の反乱に対して、孔明より授けられた秘策を用いて危機を乗り切った。成都に戻り楊儀は中軍師、ショウエンは丞相に任命された。自分より経歴の浅いショウエンが丞相に任命されたことを不満に思い、魏に降ろうと画策したが、事が露見。官位を剥奪され、平民に落とされた。このことを恥じて、自殺した。


姓名:郭攸之(かくゆうし)  字:演長(えんちょう)  生死年:?〜?
出身地:南陽郡 役職:侍中
所属:
能力値:武:32 知:74 統:40 政:85 魅:70

説明文:準備中


姓名:費い(ひい)  字:文偉(ぶんい)  生死年:?〜253
出身地:江夏郡 役職:太子舎人→大将軍
所属:劉璋→蜀
能力値:武:17 知:75 統:38 政:88 魅:82

説明文:元・劉璋配下の文官であったが、劉備入蜀後、帰順し、蜀の重臣となった。常人の数倍の速さで書物を読み、一度読んだ書物は決して忘れることはなかったという能吏型の官僚であった。孔明の信頼も厚かったが、人物見識という点では孔明の足元にも及ばず、消極的な性格であったという。孔明死後、丞相であった蒋エンがこの世を去ると、後を継いで丞相に就任したが、やはり専守作戦で斜陽の蜀を何とか維持しようと努めた。延煕十六年(253年)、宴会の席で酔いつぶれたところを魏の降将・郭循に刺殺された。戦場には孔明とともに何度か出陣したが、戦術面での才は乏しかった。孔明没後の魏延の反乱を阻止したのも、孔明の助言のおかげであった。が、有能な官僚の少ない蜀では、やはり貴重な存在であったといえるであろう。


姓名:張遵(ちょうじゅん)   生死年:?〜263
出身地:不明 役職:尚書
所属:
能力値:調査中

説明文:張遵は張苞の息子、つまり張飛の孫にあたる。祖父張飛や父張苞の武名に恥じない活躍をした蜀漢後期の名将。諸葛亮も没し、蜀が弱った時に魏のトウ艾率いる大軍が怒涛の勢いで攻めかかって来た。張遵はその?艾軍を綿竹で迎え撃ち、諸葛瞻の配下として奮闘した。戦いは一進一退を繰り返したものの、もう蜀軍には兵力と士気の低下を抑えるものは無く、綿竹もトウ艾の猛攻の前に陥落した。張遵は覚悟を決め、僅かな同士を率いて大軍に突撃した。そして、その乱戦の中華々しい戦死を遂げた。 


姓名:諸葛瞻(しょかつせん) 字:思遠(しえん)  生死年:227〜263
出身地:不明 役職:騎都尉→平尚書事
所属:
能力値:武:60 知:75 統:74 政:60 魅:80

説明文:孔明はなかなか子供に恵まれず、呉に仕えていた兄・諸葛謹の子を養子にしていた。その後、瞻が生まれたが、養子が病没したため、家督は実子の瞻が継いだ。才能は父・諸葛亮に及ばなかったが、誠実な性格で、劉禅の娘を妻に迎え、蜀皇帝の外戚として重きをなしていた。魏のトウ艾の軍勢が蜀に侵攻してきた際、ゲキ正の推挙で全軍を率いるが、情勢を好転させる策があるわけではなく、玉砕覚悟で報国の誠を尽くすべく出撃した。綿竹の戦いで、トウ艾に破れ、篭城していた時、トウ艾の書状が送られてきた。「おとなしく降伏すれば、コウ邪王(位)に封じるように朝廷に上奏いたそう」という内容であった。この時、諸葛瞻は意志がぐらつくが、息子の諸葛尚が「命を惜しんで、名を汚してはなりませぬ」と諌められ気を取り直し、城外へ討って出た。奮戦するも、戦死した。蜀の滅亡に際し、孔明の名を辱めぬ働きをし、最後を飾った武将であろう。


姓名:黄皓(こうこう)   生死年:?〜?
出身地:不明 役職:黄門令→泰車都尉
所属:

説明文:蜀滅亡の原因となった宦官。人のへつらい、つけいるのが上手く劉禅に寵愛された。董允が死ぬと政治に手を出し始め、政治の実権を握った。姜維は黄皓の専横を憎み殺害しようとしたが、劉禅は「黄皓は使い走りの召使いすぎない。董允も黄皓を憎んでいたが、朕はそれが残念である。君が気にする男ではない」と言い耳を傾けなかった。さらに黄皓は巫女や鬼神の言葉を用い政治を行なったため腐敗を招いた。劉禅が降伏すると黄皓は処刑されそうになったが賄賂を贈って死を免れたが司馬昭に憎まれ処刑された。



以上

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